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#85.【希語メモ#4】なくなる *weyd- [ᾍδης]

サンスクリットの語彙もそうだが、宗教用語にも使われている語の語源を探ろうとすると、時を経て後から後から付け加えられた意味が表面を覆っていて、堆積している意味の一番下の層には元々どんなニュアンスがあったのかを読み取るのが難しくなる。普通に辞書を引いても現代どういう意味で使われているかしか出てこないが、語源を探ると深層が見えてくる気がする。

"hell" というと、火の燃え盛る地獄というイメージが一般的だが、元の語の意味はどんなニュアンスだったのだろう。

hell
← Middle English helle,
← Old English hell,
← Proto-West Germanic *hallju,
← Proto-Germanic *haljō (“concealed place, netherworld”),
← Proto-Indo-European *ḱel- (“to cover, conceal, save”)

印欧語根 *el- は「覆う」という根底の意味がある。同語源の語は、helmet, hall, cell, apocalypse, eucalyptus など。
・helmetは頭を覆う兜
・hall, cellは仕切りで区切られた部屋(同じように サンスクリットの शाला śā́lā も*ḱel- に繋がりり同じように “house, mansion, hall” を意味する)
・apocalypseは ἀπό + καλύπτω = uncovering = 黙示録or啓示
・eucalyptusは εὖ + καλυπτός = well-covered = ユーカリ(つぼみのがくと花弁が合着して蓋になっているから)
それぞれ "cover" の意味に通じる。hell は「覆われて見えないところ」というのが根本にある意味かもしれない。漢字の「冥」も「日」を上から下から覆った手がかたどられている。

King James Version で "hell" と訳される語は元はひとつの単語ではなく複数あるらしい。それらの語とは Hades, Gehenna, Sheol, Tartarus だ。

ᾍδης

ギリシャ語の Hades も hell ("cover") 似た意味かもしれない。

Hades
← ᾍδης (Hā́idēs)
← ἀ- (a-) +‎ εἶδον (eîdon)
← *n̥- (“not”) +‎ *weyd- (“see”)

Hades が idea や witness, vision, visit, wise, Veda とつながる *weyd-/*weid- から来ているとは意外だった。ギリシア神話では冥府の神ハーデースと擬人化されているが、語源的な意味を考えると hell と同様「見えない」というのが根本にある意味のようだ。「亡くなる」や「みまかる」のように、「いなくなる」という意味だったのだろう。

γέεννα

King James Version で hell と訳される語は Hades だけではなかった。

Gehenna
γέεννα (géenna)
← Hebrew גַּיא בֶּן הִנֹּם (Ge ben Hinnom, “Valley of Hinnom”)
ヒンノムの谷と言う意味だが、そこにあったごみ焼却所のことを暗に指すようだ。ここからアラビア語の Arabic جَهَنَّم (jahannam) が来ている。火の燃え盛るイメージはこの語が原因だろう。

Τάρταρος = Ταρτησσός?

Tartarus
← Τάρταρος (Tártaros)
← Ταρτησσός (Tartēssós) or Tarshish?
タルタロスはタルシシュと関係があるかもしれない。タルシシュの位置がスペイン南部のタルテッソスだったとすれば、地中海世界の東の端から見て西の端のかなたというニュアンスで用いられたということだろうか。巨大な魚が飲み込んだヨナの話のことも考えると「考え得る一番遠い国」という意味だったのかもしれない。八丈島への島流しのようなイメージだったのだろうか。タルタロスは tortoise の語源になっている(亀は地底に住んでいてそこから上がって来た姿を見ていると考えられていたため)が、陰鬱で魑魅魍魎が留め置かれている場所というイメージはこの語に由来する。

Sheol (שאול)
← 動詞 שָׁאַל (sha'ál, “to ask, to borrow”) の受動分詞。"craving" のニュアンスのようで「いずれだれもが飲み込まれる」という意味が根本にあるようだが、火炎は字義的には関係なさそうだ。Sheol そのものはヘブライ語なのでギリシャ語からは調べられないが、Hadesに対応する概念とされているようだ。

以下は直接的に hell と訳されてはいないが、hell と同一視されることがある語。

ἄβυσσος

Bottomless / Abyss
← ἄβυσσος (ábussos, “bottomless”),
← ἀ- (a-, “not”) + βυσσός (bussós, “deep place”)
← βυθός (buthós, “deep place”)
これは字義通り「底なし」。普通に子供向けの絵本でマリアナ海溝などの一番深い深海を指す語として Abyss が出てくる。学術用語では「深海帯」を 「Abyssal zone」そして、さらに深い「超深海帯」を「hadal zone」と呼んでいる。Hades と Abyss のどちらが深いか、という問題に発展しそうだが、後代に命名に用いられた事象が元の意味の理解を妨げてはならないだろう。Hades は あくまで「見えないところ」、Abyss は「底なし」であり、どちらが深いとは関係がない。

Lake of fire
λίμνη πυρὸς
「地獄は火の燃えるところ」というイメージを決定づける表現である。実はここに hell も投げ込まれるので「火の燃える湖」が「地獄 hell」と同じだとすると「地獄が地獄に投げ込まれる」という再帰的定義、循環参照が生じ、説明にバグが起きる。

これらをどう解釈するかは語源的分析から離れた話になるので今回の調査はここまで。

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