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#78. 英印関係略史 "The English looted India."

[1.] ロンドン塔に展示されている、英国王妃の王冠の上に輝くダイヤモンド「コ・イ・ヌール」をご存知だろうか。インド皇帝となったヴィクトリア女王に献上された世界最大級のダイヤモンドだ。このエッセイでは、英語が世界共通語として飛躍した裏には、「パクス・ブリタニカ」を軍事的・経済的に支えた英領インドの存在があったということについて光を当ててみたい。英語が世界言語へと躍進した1700~1800年代前後のイギリスの海外覇権の歴史の流れを年代順に概観することで、いかに英語が興隆し世界言語の地位を獲得したかの要因を考える一助になればと思う。その時間軸に言語学に関係する出来事を重ね合わせることで、その時々の世界情勢が人々の言語観にどう影響したかも考えてみたい。

[2.] 英語史をざっくり概観してみると以下のようになる。
 ①ケルト人の移住(紀元前)
 ②ローマ属州ブリタンニア(43~410年)
 ③アングロ・サクソン人の到来(400年代後半)
 ④バイキングの侵入(787~1000年代)
 ⑤ノルマン征服(1066年頃~1154年頃)
 ⑥ルネッサンス(1400年代~1600年代)
 ⑦大英帝国植民地時代(1700年代前後~1997年)

[3.] 英語の歴史はブリテン島への侵入者による言葉の持ち込みの歴史でもある。それが、近代以降、海外へ打って出ることにより、今度は侵入者としての立場に立ち、自分たちが言葉を持ち帰るという新たなフェーズに入った。表題の "The English looted India." これを「英国人がインドを略奪した」と訳せば、植民地時代を振り返った言葉のように見える。大英博物館の展示品を眺めると、帝国主義時代に世界から略奪してきたものが集積している。支配権の正統性を主張するため、中国(大陸と島嶼のどちらも)が故宮博物院に文物を所蔵しているのと同じように、イギリスが確かに世界強国であることの証拠を誇示しようとしているかのような印象さえ受ける。しかし、先程の一文を別の意味で解釈するとどうだろう。「英語がインドを略奪した」と訳すと、英語史の話に変わるのだ。実はこの「loot」という単語はヒンディー語の लूट (lūṭ) "戦利品・分取り物" から来ている。英語と思っている単語が実はインドからの言わば "盗品" だったという皮肉を込めた言葉を、インド言語からの借用語を使って表した一文として、多少無理だが解釈できる。

[4.] これから歴史の話になるので、興味がなくてあくびが出るという方は (22.) まで一気に飛んでもいいかもしれない。

[5.] 英語が世界語になる歴史は、英国が制海権を拡大し世界帝国へと興隆していく歴史でもある。その過程でライバルである周辺の海洋帝国と衝突することは避けられない。もしそれらに打ち勝っていなければ、今の英語の世界語としての地位はなかったかもしれない。イギリスが打ち勝って来た列強とは、スペイン・ポルトガル・オランダ・フランスだ。

[6.] イギリスの海洋国家としての歩みは、イギリス人として初めて世界一周をしたフランシス・ドレークの世界周航(1577年~1580年)から始まる。スペイン船に対し海賊行為をして恐れられていた彼だが、1588年のアルマダの海戦で指揮を執り、スペイン無敵艦隊を壊滅させた。とはいえ、スペインはアメリカ大陸での覇権を保持し続けており、スペインを抑えてイギリスが海洋覇権国家になるのはまだ先のことであったが、この勝利がエリザベス1世の治世の国威高揚に貢献したのは間違いない。そのエリザベス1世の治世中の1600年に、その後のイギリスのアジア方面の植民地支配に大きな役割を果たすことになる、東インド会社がロンドンに設立され、アジア方面の独占貿易の認可を取得することになる。なお、東インド会社があったのはイギリスだけではない。ポルトガル・オランダ・フランスにも東インド会社があり、同様に独占的な貿易権を有していた。

[7.] ポルトガルは、大航海時代よりインド航路の開拓に成功して早くからアジアに進出していたが、スペインに併合され(1580年~1640年)本国の勢いが衰退し初めていた。ポルトガルの植民地の経営の重心は、アンゴラなどのアフリカとブラジルにまたがる大西洋側だった。また、オランダは衰退するポルトガルの東南アジアの権益を奪っていた。そこにイギリスも割り込もうとしたが、アンボイナ事件(1623年)で東南アジアから締め出されてしまう。結果としてイギリスはインドに力を注ぐことになっていく。アジア方面の植民地争奪戦は、中央政府が主導した国家間の争いというよりは、各国の東インド会社間の貿易権益の闘争で、各会社はそれぞれ軍隊を保有しており、武力闘争を行った。

[8.] そのような衝突が世界各地で繰り広げられていたが、なかでも重要な出来事は、プラッシーの戦い(1757年)だ。フランス東インド会社軍の支援を受けた、ムガル帝国のベンガル太守軍 対 イギリス東インド会社軍との戦争だが、イギリスはフランス・ベンガル軍を撃破する。この戦いによりイギリス東インド会社はムガル帝国・ベンガル太守の軍事顧問という立場でベンガル地方の徴税権を獲得することに成功し、フランスをインドから追い落すことに成功する。この時から、ベンガル地方の都市カルカッタがイギリスによるインド植民地化の拠点となる。

[9.] 1760年代より産業革命が進行していたイギリスだったが、航海技術にも革新が訪れていた。経度を測るためには長期間過酷な環境でも狂わない正確な時計が必要だったが、温度や揺れに強くコンパクトなクロノメーターが開発される。また1767年にグリニッジ天文台航海年鑑の出版を開始する。航海年鑑にはグリニッジの視太陽時が掲載されていた。航海士は時計をイギリスのグリニッジの時間に合わせ、現在地の天体の視位置から得られる情報と航海年鑑の情報を比較することでその差から正確な経度を知ることができた。イギリス政府はこうした開発を支援することで世界の海の覇権争いで有利になっていく。

[10.] それまでイギリスの植民地支配の重心は大西洋側のアメリカ大陸だったが、アメリカ独立戦争(1775~1783年)の後、重きを西から東へと移し始める。本格的にインド進出を始めたイギリスは現地に行政機関・法的機関を設置する。その中で1783年にイギリス東インド会社の雇用による上級裁判所の判事として赴任して来たのが、ウィリアム・ジョーンズ卿である。当時のインド亜大陸はまだムガル帝国が支配していた。ムガルという名称は「モンゴル」のペルシャ語読みから派生した言葉であるが、チャガタイ・ハン国(中央アジア)出身のティムールを始祖とするティムール朝(中央アジア・イラン)の王族の末裔が、デリーに立てた王朝だったので、支配層はペルシャ語・チャガタイ語を話し、行政言語はペルシャ語だった。そのペルシャ語と現地語が融合した言葉はヒンドゥスターン語(Hindustani)あるいはウルドゥー(Urdu)と呼ばれていた。ウルドゥーとは「陣営」の意味であるが、「ザバーネ・ウルドゥーエ・ムアラーエ・シャージャハーナーバード」(「王都の高貴な陣営の言葉」という意味。シャージャハーナーバードは第5代君主「シャー・ジャハーンの町」という意味で、現在オールド・デリーと呼ばれているデリー旧市街にあたる)の一部を取った名前だ。意外かもしれないが、イギリスのインド植民地支配にペルシャ語が深く関係しているのだ。そして、ジョーンズはヘブライ語・ペルシャ語・アラビア語に堪能だったのである。ジョーンズはベンガル・アジア協会を設立(1784年)する。サンスクリットを学んでいた彼が、その後の印欧祖語の研究と比較言語学の発展につながる重要な講演(1786年)を行なったのは、こうした背景があったのだ。

[11.] 1789年に始まったフランス革命も絡み、1790年代以降、列強各国の植民地の勢力図は目まぐるしく変化する。勢力を拡大するイギリスに対し、ヨーロッパ各国は警戒。1794年にデンマーク・スウェーデン・プロイセン・ロシアは同盟を結んで包囲網を張るようになる。そんな緊張した状況での1795年、フランス革命軍により本国を占領されたオランダは、混乱のなかで1799年、オランダ東インド会社を解散。オランダの海外植民地はイギリスに接収され、イギリスはさらに支配領域を拡張していく。各国の警戒に対し先手を打ち、イギリス海軍はコペンハーゲンを攻撃(1801年)し、デンマーク海軍を破壊した。フランス革命勃発後の1800年代、ヨーロッパ本土はさらなる激動の時代に入るが、歴史を最大に動かした人物が現れる。ナポレオンだ。ナポレオンは海峡を超えてブリテン島へ侵略を試みるが、トラファルガーの海戦(1805年)でネルソン提督率いるイギリス海軍はフランス軍を一蹴する。これによりナポレオンの勢いがなくなった訳ではないが、ブリテン島近辺の制海権を確実にすることで、イギリスは海洋帝国としての確かな地盤固めをした。

[12.] ナポレオン戦争(1803~1815年)により、世界各国の植民地の諸宗主国の体力は大きく削られ、ライバルの列強が脱落して行くことになる。スペイン・ポルトガルは半島戦争(1808〜1814年)で国内が疲弊し、アメリカ大陸の植民地は独立に向かう。オランダ領のケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡(1806年)され、ロンドン条約(1814年)で東南アジアのオランダ領はスマトラ島はオランダが、マレー半島はイギリスが影響圏に置くことが決まる。これによりイギリスの東アジア進出の足掛かりができることになり、この後、シンガポールや香港が建設されることになっていく。ナポレオンがワーテルローの戦い(1815年)で勝利していれば歴史は大きく変わっていたかもしれない。しかし、一晩の雨によって形勢が逆転しまったのだ。

[13.] ナポレオン戦争はただ単に覇権の地図を変えただけではなかった。民主主義・近代法といった思想が一気に広まり、それまで封建領主の領土を単位とした国境から、国民を単位とする国民国家形成の機運が高まるきっかけになったが、それはナポレオンが既存のものを大破壊したからに他ならない。しかし、一方で国民と何か、どこまでが一国民なのか、それを定義する基準は何かという、現在も世界各国で続く大きな問題が浮上することになる。そこで注目されるのが "我々意識" をまとめている共通言語というくくりだ。「ドイツ語文法」の中でのグリムの法則の発表(1822年)も「グリム童話」の収集・編纂を通じてゲルマン語研究からドイツ民族とは何かを追求する試みだったのかもしれない。この時期に開始されるオックスフォード英語辞典の編纂(1857年~)もそういったナショナリズムという時代の空気を反映していたのかもしれない。

[14.] インド航路の制海権を握り、向かうところ敵なしとなったイギリスは、蒸気機関の技術(紡績・海運・鉄道)による圧倒的な生産効率と生産量を背景に、コ・イ・ヌールを始め様々な資源を植民地から大量・格安に調達・輸送することで確固たる大帝国を築き、ヴィクトリア期(1837〜1901年)に繁栄の頂点に達する。インドは世界有数の鉄道国家(ボリウッド映画にもそのシーンはよく出てくるほど今でも一般市民の都市間移動は長距離鉄道が主力)だが、その始まりは大英帝国時代に敷設された、綿や茶の大量輸送のための鉄道網だった。なお、ムガル帝国が常にインド亜大陸全土を支配していたわけではなく、各地に独立した諸王国があった。北部ではパンジャブ地方やカシミール地方を領土にしていたシク王国が英国に対する抵抗を続けていたが、ついに降伏し(1849年)ダイヤモンド「コ・イ・ヌール」がイギリスの手に渡ることになったのだった。

[15.] そのヴィクトリア期に、イギリスとインドの間に起きた大きな出来事と言えば「セポイの反乱」とも呼ばれるインド大反乱(1857~1859年)だ。セポイあるいはシパーヒーとは、イギリス東インド会社が編成したインド人傭兵のこと。東インド会社の軍事力も現地調達されるようになっていた。実際には傭兵の反乱はきっかけに過ぎなかった。産業革命による英国からの大量の良質な綿製品の流入によってインド国内経済が急激に衰退したことで、権力や財産を失った支配階層から手工業の労働者に至るまでが、植民地政策に対して全国的な反対運動を起こした。イギリスはこの動乱をグルカ兵(ネパール人山岳民部隊)を投入して鎮圧した。この反乱後、それまで名目的に存続していたムガル帝国は完全に解体(1858年)され、ヴィクトリア女王を皇帝とする(1877年)インド帝国となる。形式的にはイギリス国王がインド皇帝を兼ねる連合国家だが、実体はイギリスによる直接支配である。イギリス王がフランス王でもあることを主張していたやり方が、ここでもまた脈々と受け継がれているような気もする。その後、スエズ運河開通(1869年)やエジプト保護領化(1882年)を進めていくが、それらイギリスの植民地政策は、インド航路を確保するためのものだった。

[16.] このヴィクトリア期のイギリスでは、植民地経営の実務的必要から、植民地現地の言語の研究や辞書編纂が多くなされている。現在でも現役で使われ、多くの辞書編纂の基盤になっている大作の辞書、A Dictionary of Urdu, Classical Hindi, and English(1884年)はこの時期に出版された。ペルシャ語が公用語のムガル帝国の名残りもあってか、この辞書ではアラビア文字の派生形のウルドゥー語のアルファベット順で単語が立項されている。世界的にナショナリズムの機運や帝国主義が幅を利かせていた時代だが、その陰には必ず抑圧される民族・言語も存在する。エスペラントを発表(1887年)したザメンホフも、ロシア帝国下のポーランド系ユダヤ人という抑圧される側だった。そうした境遇が、特定の文化や帝国主義の押し付けではなく、特定の誰の母語でもない共通語を作ろうという思想に繋がったのかもしれない。

[17.] 英領インドの版図は現在のインド国より広く、現在のパキスタンからミャンマーまでを含んでいた。しかしネパール王国は独立を保っていた。その理由はグルカ兵を傭兵として輸出するという交渉術を使っていたからである。後に、このグルカ兵に、シク教徒やムスリム系インド人・パシュトゥーン人などをグルカ兵に加え、英印軍(イギリス領インド軍 British Indian Army)が構成されていた。これらシク教徒兵は「コ・イ・ヌール」が奪われたシク戦争で征服した相手である。地元民の抵抗に別民族の地元民を持って鎮圧に使う、分割統治(divide and rule)を推し進めるのだが、これによって、カシミール問題をはじめ現代の世界各国の諸紛争の種がまかれることになるのである。また、この英印軍は、後の第一次および第二次世界大戦での強力な戦力となり、イギリスの世界強国の地位を防衛することに繋がっていく。第二次世界大戦後、セポイの反乱からちょうど90年の1947年にインドはイギリスから独立するが、その間に深く関わり合った両者は、国は分かれてもイギリス連邦(British Commonwealth of Nations)の一員として今でも特別な関係を維持している。(ついに2022年にはイギリス初の非白人としてインド系のRishi Sunak氏が首相となった。)しかし、第二次世界大戦後のイギリスに植民地支配を維持する体力はなく、各地の植民地は相次いで独立、ついに世界覇者としての地位をアメリカに譲ることになり、英語と言えばアメリカ英語という時代が始まるのである。

[18.] スペイン・ポルトガル・オランダとの植民地競争を勝ち抜いて来たイギリスだが、フランスとの関係はどうなったのだろう。インドから一部の都市を除き完全に権益から駆逐され、ナポレオン戦争で敗北して海外植民地を失ったフランスだったが、王政復古によって多くの領土が返還されていた。アルジェリアの征服(1830年)によってフランス第二次植民地帝国が始まる。第二帝政を開始したナポレオン3世は、東ではベトナムを保護下に置き(1863年)さらに普仏戦争後にカンボジア・ラオスを統合してフランス領インドシナを構成(1887年)した。アフリカでも北部・西部・中部へ横断する形で植民地を拡大していく。この「横」の動きに衝突してしまったのが、スエズ運河のあるエジプトとケープタウンを結ぶように「縦」に縦断していたイギリスである。両者はスーダンのファショダで遭遇(1898年)し、一触即発の事態となる。しかしフランスが譲歩したことで軍事衝突が避けられた。この事件以降、何とライバルだったイギリスとフランスは協力関係に入り、お互いに干渉せずそれぞれの植民地に力を注ぐことになる。背景としては、普仏戦争後成立したドイツ帝国が力をつけて来ており、フランスにはイギリスと対立している余裕がなかったからだ。こうしたいきさつで、フランスは植民地を再拡大・維持し、現代に至るまでフランス語も国際語として大きな地位を維持する土台が据えられることとなる。

[19.] ここまで1700~1800年代のイギリスの制海権の流れとインドの関係を概観した。年がばれてしまうが、1885年を舞台として、父親がイギリス人、母親がフランス人でインド生まれの主人公が、ロンドンの寄宿学校で経験するストーリーを描いた1985年放送のアニメ「小公女セーラ」を思い出す。インドのダイヤモンド鉱山の令嬢だったが、鉱山が倒産し父も死んだとのことで寄宿学校で不遇な経験をする話だが、最後は隣に引っ越して来た父の友人が連れていたサルとインド人使用人がきっかけで、探していた大富豪の令嬢だと分かり、実は成功していた鉱山の権利を取り戻して、最後はインドに帰って行くという話である(1885年ということはスエズ運河が開通した後という設定のはず)。最後に港に見送りに来た元いじめっ子だったクラスメートが別れ際に、私はアメリカに行って大統領婦人になるかもね、と言っていたが、この時代背景ずばりのストーリーだった。主人公は最後インドに帰って行く。ではインドに移り住んだイギリス人は実際にどれほどいたのだろうか。

[20.] アメリカ・オーストラリア・南アフリカといった開拓民が移り住んだ植民地とは違い、インドはイギリス国民の入植先と言うよりは、原材料・労働力を調達する先、製品を売りさばいて利益を上げる消費市場だった。当時の人口データによる比較ではないが、ざっくりしたイメージでいうと、ヨーロッパの1/3の土地に、アフリカ大陸の全人口と同じくらいの人口がいるような国である。それだけ大きな労働力と消費の市場があるのだ。これを商売のターゲットにしない手はない。英語にはネイボッブ(nabob)という借用語がある。イギリスのインド成金を指す語で、本国に帰還した後もインド風生活に染まった者を指した言葉で、ベンガル地方のムスリム太守の称号であるナワーブ (nawab) に由来する。後に禁止されるが、1760年代まではイギリス東インド会社の職員は、正規の業務とは別に個人的に交易を行なって富を築くことができた。本格的にインド進出を始めたイギリスは現地に行政機関・法的機関を設置したが、1769年以降はイギリス人が収税吏に登用されるようになり、直接的に現地社会から税収を収奪するようになった。そのような統治下でイギリス人官吏の3分の1は現地妻を有し家族を持っているのが普通だった。これは航海時間が非常に長くかかることから、インド植民地に移り住む女性子どもが少なかったためである。最初は数百人規模の英国人兵士は、18世紀半ばには 約18,000人、1869年にスエズ運河が開通した頃の19世紀の半ばには約40,000人、英国人官吏は2,000人ほどになっていた。

[21.] インドに派遣される英国人が増えていたが、東インド会社ロンドン本部は、英国人兵士が妻を得たい希望を叶える方法としては、同じくインドに進出していたポルトガル人コミュニティから女性を選ぶことに対しては非常に警戒感を持っていた(生まれて来る子どもたちがローマ・カトリック教徒になる可能性があるため)。それで、プロテスタントで洗礼をする者に助成金を出していたが、カルカッタのプロテスタント教会で洗礼を受ける幼児の多くが英印の混血で、それを嘆く記録が残っている。そういうルーツを持つ人たちのことを Anglo-Indian と呼び独自のコミュニティを形成していた。なお、ポルトガル系の混血の人たちを Luso-Indian と言い、こちらも何十万人規模の人がインド国内にいる。これらのヨーロッパにルーツを持つ人たちが(南アフリカのアフリカーナーのように)統一的コミュニティを作らなかったのは、カトリックとプロテスタントの違いがあったからだろうか。もし同じプロテスタント系の諸国からの移民も多く来ていれば、アフリカーンス語のような英語の変種が生まれることもあったかもしれないし、アメリカのようにヨーロッパ出身者を中心とした国家と、そうでない複数の国家群が別々に独立する、ということもあり得たかもしれない。だが実際は、インドでの利権はイギリス一国が掌握していたため、そのような変種が生まれる余地はなかったようだ。多くの Anglo-Indian たちは1947年のインド独立時、英本国かオーストラリアやカナダなどの英連邦に移住した。現在、インド国内で約40万人のAnglo-Indianの人たちがいるが、今でも移住の傾向は続いているようだ。独立運動期から独立後に、インドの英語は担い手がイギリスから現地のインド人へと引き継がれ、新たな変種が育つ下地が整うこととなるのであった。

[22.] ここまで、イギリスの海洋帝国としての歴史をたどって来たが、何が観察できただろう。なぜ英語が世界言語になったかについて紐解く時、たくさんの植民地を持っていたからと単純化されて語られるかもしれないが、その背後には、1600年代~1800年代の、自然科学の発達とイギリスの国力の増大につながったいろいろな出来事があったのだ。「歴史のif」を考えるうえでこうした出来事を覚えておきたい。ナポレオンが台頭して来なければナショナリズムの高揚による国民国家の意識は今と違う方向に進んだかもしれず、英語の標準化やラテン語への依存といった英語内部の変化にも別の影響を与えていたかもしれない。悪天候がなければアルマダの海戦後のスペイン艦隊は無事帰還していたかもしれず、前夜の豪雨がなければワーテルローの戦いでイギリスは敗北していたかもしれない。そうすると今頃学校で必須となる外国語はスペイン語やポルトガル語やフランス語だったかもしれない。

[23.] イギリスとインドの400年に及ぶ接触の間に、英語にも現地の語彙が多く取り入れられるようになる。最近のOED更新で23個の日本語からの借用語が追加されたことがニュースになっていたが、インド言語からの借用も更新の度に追加されている。例えば、2017年の更新で約70語が、それまでに掲載されていた約900語に加えて追加された。その中には jugaad (1995) のように比較的最近に現れた語だけでなく、18世紀からの使用されている語 [qila (1761), chaudhuri (1772), haat (1779), bada din (1781) Devi (1799)] も含まれている。他に追加された語は、親族名称ではインド言語そのままのもの [abba, Anna, bapu, chacha, didi, –ji, mata] もあれば、既存の英語を応用した語 [cousin brother, cousin sister] もある。食に関わる語は [dum, gosht, gulab jamun, keema, mirch, mirch masala, vada]。現地に独特の土地区画や建物に関わる語は [bhavan, colony, gully, haat, jhuggi, kund, nagar, nivas]。会話で強調や間投詞で使われる語は [bada, ekdum, maha, achcha, bas, chhi-chhi, chup, Jai]。複数のインド言語で使われていたり、それらの合成であって、どの言語からかひとつに限定できないもの [dadagiri, tappa] や、究極的にはペルシャ語由来 [bachcha, dum] もあれば、サンスクリット起源のもの [bhindi, nai, sangha,  desh, natak, sevak, sevika, udyog] もある。また、最初の借用時から、現在の意味が変わっているものもあったりする。[chamcha (1832) 先端がカップ形状のスープ用杓子 → ゴマすり・おべっか使い]。また、インド言語と英語の混成語 [chakka jam, gully cricket] や英単語から独自の意味が付加されているもの [lunch homes, bore wells, hydel, foreign-returned, shuttlers, colony, hotel] もある。

[24.] KDEEとOEDを使ってひとつの試みをしてみた。OEDに載った約70語をはじめ、OEDやKDEEに掲載されているインド言語からの借用語をできるだけ拾い(主にoed.comから)、年代順に並べてみた。特定の分野の語彙が、特定の年代に現れるというようなことがあるのだろうか。400年に及ぶ接触の中で、どんな影響をどのように受けたか何か傾向は見えてこないだろうか。もちろん、OEDの中のインド言語起源の全ての語彙を拾えたわけではないので、この表に含まれていない語彙もまだまだあるかもしれないが、なんとなくの傾向はつかめるように思う。表にして眺めた結果の感想は以下の通り。(表は投稿したpdf資料を参照ください)

[25.] 古くは、アジアの物産の名称は、ギリシャ語・ラテン語を経由して、多くの場合直接的にはフランス語から入って来ていた。その後、1600年代前後の大航海時代には、インド航路を押さえたポルトガル語経由のものが(ポルトガル語にはアラビア語を経由して入ったものも)多くなる。1700年代以降、東インド会社を設立し、自ら海外へ進出し、他国を押しのけて現地文化と直接接触するようになると、他の言語を介さず直接現地語から英語に借用語が入って来るようになる。そして、英語は今では、かつてのラテン語・ポルトガル語・フランス語がそうであったようでに、世界各国語への借用語の中継地としての役割を果たすようになっている。例えば、ジャングル、チーター、シャンプー、ラッカー、カーキ等は英語を通して日本語にも入って来たヒンディー語だ。また、産業革命をけん引した繊維産業周りの語彙では、インド発イギリス経由とはあまり意識されていないが、パジャマ、カシミヤ、ショール、キャラコ、ダンガリー、ジャコネット、ジョッパーズといったものがある。1700~1800年代が一番接触が濃厚だった時期で、支配に関する語彙も多く、なにより借用語数が1800年代ではほかの年代に比べて断然に多い。その後独立運動が始まり植民地が独立していく1900年代には、借用語彙数が以前ほどでなくなり、支配に関する語彙の流入はなくなり、食文化に関するもの中心になっていっているように思う。

[26.] 表を概観してみて疑問に思ったのは、初めイギリス統治の拠点だったカルカッタの地元の、ベンガル語からの借用が少ないことだ。サンスクリットでもヒンディー語でもベンガル語でも共通している語彙もあるので、あえてベンガル語からの借用と認識されていないだけだろうか、それとも、ベンガル太守などのムガル帝国の支配層はペルシャ系で、イギリス官吏と直接に接触していた人たちの言語がベンガル語ではなかったということだろうか。イギリス植民地時代の英領インドには、イギリスが直接統治した直轄地と、藩王国に支配を任せていた地域とがあったが、ヒンディー語やタミル語の地域は直接支配の割合が多い傾向にあるため、他の言語と比べてより多くの語彙借用が行われたということだろうか。

[27.] ここまで読んで英語史の話というよりは、インド独立史が論題だったかのような印象を持たれたかもしれないが、インド英語を論じる際にはこうした歴史的背景について多少なりとも念頭においておくと、また違った視点から考察ができるかもしれない。今回は、英語の単語であるがインドで新たな意味を持つようになった語や、英語に借用された語彙が英語内で新たな意味を付して発展するケースなどについては、ここでは取り上げることはできなかった。また、OEDに載ってはいるが、英語の中で今ではどれだけ使用頻度があるのか、などの視点についても含めることができなかった。世界各国語への借用語の中継地としての役割を、英語は果たすようになっているが、一度記載された語彙はOEDから除かれることはないのだろうか。世界各国から集められ、OEDのコレクションの中に加えられたの借用語の語彙たちが、大英博物館にあるコレクションや、ロンドン塔のコ・イ・ヌールのように、英語に威厳を加えるのに一役買っているように見えて来てしまうのはわたしだけだろうか。
(英語史ライヴ2024投稿作品)


編集後記
ダニエル書7:7で世界の覇者を表す野獣が次々と出て来るが、第4の獣が面白い。

「その後わたしが夜の幻のうちに見た第四の獣は、恐ろしい、ものすごい、非常に強いもので、大きな鉄の歯があり、食らい、かつ、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは、その前に出たすべての獣と違って、十の角を持っていた。 わたしが、その角を注意して見ていると、その中に、また一つの小さい角が出てきたが、この小さい角のために、さきの角のうち三つがその根から抜け落ちた。見よ、この小さい角には、人の目のような目があり、また大きな事を語る口があった」とある。(口語訳より)

どの時代も覇者となった帝国は概して皆んなこうだろうと思うのだが、その前の第3の獣がギリシャで、その後に登場する強力な第4の獣はローマを表しているという解釈があるようだ。この第4の野獣は10の角を持っていて、そのうち1本の小さい角が先にあった3本の角を根本から落として巨大になるという。そしてその角には2つの目があって1つの大きな口があるという。

これは「ローマから派生した諸国が多くある中で、辺境の小国にすぎなかったブリテンが興隆し、先にあったスペイン・オランダ・フランスを蹴落とし、2つで1セットの目のように英米の連携を維持し、1つの口つまり1つの言語を話し、一致して世界に威圧的な発言をする」状況に当てはまると言う解釈があるようだが、なかなか面白いと思った。

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