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#129. 「Q」に関するQ
前回、「W」の入る単語にゲルマン語色を強く感じることに触れた。逆に、ラテン語感を感じさせるアルファベットは「Q」だ。
/k/の音を表すのに K, Q, CH などいくつか文字があるのはなぜかという問いを聞くことがある。口蓋化の問題など、C の文字が表す音が色々変遷することについて語られることは多いが、そもそもなぜ Q があるのかはあまり注目されない。
歴史を振り返るとラテン文字は エトルリア文字←ギリシャ文字←フェニキア文字←原カナン文字←... と遡ることができるが、もとはセム系言語を書き表す文字で、セム語では K と Q は異なる音素なのだ。
調音点が K はだいぶ前に(軟口蓋音)、Q はだいぶ奥にある(口蓋垂音)。Kaaf は「キャーフ」に聞こえるし、Qaaf は アの母音で発音しているはずなのに調音点が奥なので「コーフ」と聞こえる。アラビア語圏の名前で Q から始まるものが多いのはこのためだ。
アラビア語の音を聞けば、元のフェニキア文字で K と Q が違う音だったことが想像できる。
𐤊 ک (kaph) [k] 拳
𐤒 ق (qōph) [q] 針穴
西方ギリシャ文字や古イタリア文字では、フェニキア文字の 𐤊 (kaph) と𐤒 (qōph) の区別をΚ (カッパ) と Ϙ (コッパ) の区別として引き継いだ。後続する母音によって書き分け、母音 a,e,i の前では Κ、奥舌母音o,uの前では Ϙ を用いた。
現在のギリシャ語につながる東方ギリシア文字では Q はなくなったので、通常、ギリシャ文字をして学習する一覧にϘ コッパは現れない。西方ギリシャ文字のΚ (カッパ) と Ϙ (コッパ) を引き継いだラテン文字では K と Q の区別が残った。
東方ギリシア文字で Q がなくなったように、ラテン文字でもなくなってもおかしくなかったのに、なぜなくならなかったのだろう。仮説をたててみた。
口蓋音の音素は
印欧祖語では ḱ k kʷ
ギリシア祖語では k kʰ kʷ
イタリック祖語では k kʷ
となっている。口蓋垂音/q/の音は印欧語にはないが、代わりに両唇軟口蓋音/kʷ/がある。kʷ は、祖語に近い段階では独立した個別の音素として認識されていた。それがだんだん緩くなり、k-ua というように子音+二重母音のように時間とともに移行していったが、ϘやQという文字表記を導入し始めた当初は、/kʷ/は/k/と違う音素だという意識によって、/kʷ/の音を「Q」の1文字に充てたのではないだろうか。
その後、Qua を Kua や Cua と綴っても問題はなかったが (現にラテン語の qua-が スペイン語では cua- になる) 、k-ua というように子音+二重母音のようになっていったのはQの使用が定着したあとだったので、わざわざ Q を削除することはしなかった...ということだろうか。
「kʷ が独立した個別の音素として認識されていたので1文字が充てられた。」これが本当なら、gʷではどうなっていたのかが気になる。
アラビア文字では /q/ の位置の有声音 /ɣ/[غ]があるが、そのフェニキア文字はどうなっているのかと思ったら、フェニキア文字では g は 𐤂 (gīmel [ラクダ]) の1種類しかなかった。アラビア文字 [غ] gain は声門閉鎖音つながりで [ع] 'ain の派生形だった。 [ع] 'ain のもとになったフェニキア文字は 𐤏 (ʿayin [目]) のほうだった。これはラテン文字になると O である。フェニキア文字 𐤂 (gīmel) から派生したアラビア文字は [ج] jim だった。セム語の /g/ がアラビア語では /j/ になるパターンね...。
いずれにしても、フェニキア文字に /q/ の調音点で有声音を表す文字はなかったので、ギリシャ祖語やイタリック祖語で g と gʷ は音素としては別だったが、違う文字がなかったので別の文字を当てると言う発想も出なかった、と考えたくなる。
ちなみに、フェニキア文字 𐤂 (gīmel) はラクダという意味だが、これが英語の camel の語源。アラビア語では gがjになるので、جَمَل (jamal)。カクっとなった部分はラクダのコブなのか頭なのかは諸説あるようだ。
「Q」はいかにもラテン語らしく、「W」はゲルマン語らしいということを前回述べた。ゲルマン祖語の音素をみると、
口蓋音の音素は
ゲルマン祖語でも k kʷ
となっている。これで言えばゲルマン語も kʷ の音素は Q で書くことにしたかったのでは?という疑問が生じる。しかし、古英語では「cw」と綴ったようだ。quick は cwic、queen は cwēn。/w/に対する文字 ƿ (wynn) があったので、"cƿen" となる。qu-の綴りになったのは中英語期、ラテン語・フランス語化する時期だ。cƿ-(cw-) の綴りは ƿ の消滅とともに qu- となっていくのである。