恋、歩幅、スピード
見てほしい作品がある。
僕の尊敬する咲森一紀さんによる短歌。
この作品があまりにも好きすぎて、そして思うところがありすぎて、今日はその「思うところ」について書いてみたい。
恋人と別れた後、すぐに別の人を好きになってしまうことにものすごく負い目を感じる。自分が誰にでも好きと言えてしまう軽薄な人間に見えるから。でも嘘をついて好きと言ったことなんか、軽い気持ちで誰かと付き合ったことなんか一度も無い。ただ僕は、常に本気でしか人を好きになれないし、好きな人に好きと言わないことができないだけだ。
でもこれも、言い訳に聞こえて嫌だな。
「すぐに人を好きになっちゃうの、今好きな人にも前に好きだった人にも申し訳なくなってしまう」と、恋人に言ったことがある。
「まあ、どうあれ、とにかく前に進んでるってことだからいいんじゃない」と、彼は言っていた。そういうところが好きなんだよなあと思った。
これを書きながら、恋人の好きなところを改めて考えてみた。
僕は彼の、一挙手一投足が好きだなと思ってしまう。年上で、大人で、ちゃんと生活してるように見えるけど詰めが甘いところとか、「まあ最終的にどうにかなればそれでいいよね」みたいなマインドとか(キッチンはもう少し片付けたいな…と思わないでもないが)。
余裕があるというよりは、生き急いでいない感じが隣に居て心地良い。というか、僕はその姿勢に救われている。僕はいつだって優しくなりたい。
生き急いでいる人と一緒に居たことがある。人生における目標があって、常にそれを達成しなくてはというある種の強迫観念に突き動かされて生きているような、そういう人だった。自分が求める自分の姿が明確にあって、それに向かって直向きでいられるのは本当にかっこよかったし、憧れだった。
だけど、僕はもう二年くらい前に生き急ぐのをやめてしまっていた。彼の生きる速度はゆっくり歩いていたいと思う僕には速すぎて、振り落とされることや彼自身がその速度で身を滅ぼすことに勝手に不安になっていたんだなと今では思う。
そしてきっと、全速力で走りたい彼に僕の速度は遅すぎた。僕が息が上がっていちいち止まって呼吸を整えている時間も、そのために「待って」と彼の走りを止めることも、彼にはもどかしいものだったと思う。彼がなすべき(と彼が思っている)ことをなすには、遅かれ早かれ、僕を振り切らなくてはいけない時が来ていたはずだ。
一緒になって二ヶ月が過ぎた頃、彼は僕の手を叩くように振り解いた。
咲森さんのこの短歌を見たのは彼と別れて一か月後くらい、まだその人が頭の中を占拠していた時のことで、ああそうか僕らはそもそも生きている速度が違っていて、同じ道の上でただ一瞬重なっただけだったんだ、彼が僕を追い越していっただけだったんだと、心の底からほっとした。
自分に原因があるとわかりながら、本気で自分のせいだとは思いたくなかったんだと思う。つくづく最低な人間だ。
彼と別れた後、一度だけ直接話す機会があった。彼は僕に別れを告げたことを申し訳ないと思っていたらしい。酷いことを言ってしまったと。
申し訳ないことなんか少しも無い。
ただ速度が合わなかった。それだけのこと。
でもやっぱり、僕も縋ってしまったことは申し訳ないと思っていた。そういうところで似たもの同士だったような気もする。それでも同じ歩幅では歩けなかった。仕方のないことだし、そうであることが悲しくて愛おしい。
僕は人と人の違いを愛さずにはいられない。違う人間が交差するということが好きで好きでたまらない。僕は彼のことが、違うから好きだった。違うから好きなのに、歩幅も速度も違うと共には歩けない。
同じような人間なのに生きる速度が違うから一緒に生きられない、その事実すらも僕には愛おしく感じられた。きっとあれは恋だった。
道の上で座標が重なった時に飛んだ、一瞬の火花だった。
今、きっと同じ速度で、同じ歩幅で歩いている恋人のことを考える。
ゆっくりと、時々寄り道をしながら同じ景色を見て歩く。同じ速さで景色は流れる。それでも僕らは違う人間だから、違うフィルターを通してものを見ているし、違うことを考えている。
違うことは愛おしい。
違う、でも愛する人と同じ速度で歩いていけることはもっと愛おしい。
違うこと、同じこと。
そういう事実を想うたび、恋人に、僕らの歩幅に、スピードに、僕は何度も恋をする。