2. 大学院と就職
神戸大学大学院に進学
先輩の伝手を頼って神戸大学大学院国際協力研究科(GSICS)の高橋基樹先生の研究室を訪問しました。先生とお話させていただき、絶対にここで勉強しようと決めて、無事に合格しました。院試の専門科目は選択制で、教育開発を選びました。研究計画書では公教育における教授言語について書きました。本当にありがたいことなのですが高橋先生には合格してから入学まで研究室のアルバイトをさせてもらい早い段階で学校の雰囲気に馴染むことが出来ました。半年ほどアルバイトをさせてもらいながら本を読んだり先輩たちとの会話で耳学問したりしていました。
修士課程では教育学から経済学に専攻に変えました。もっと広くアフリカについて勉強したいと思ったからです。高橋基樹研究室では開発経済学を一から勉強しました。また先生は飲み会での熱い議論がなにより好きな方ですのでそちらの方でもずいぶん鍛えられました。議論といっても圧倒的な実力差があるので一方的な展開になるのですが、夜が更けてだんだんみんなが酔ってきて、気が付いたらなぜか先生の正面に私が一人で座っており他のみんなはちょっと遠巻きに見ているという展開がよくありました。他の人が器用なのか私だけ特別どんくさいのか両方なのかだいたいそういう役回りでした。
修士論文では、ガーナの谷地田(やちだ)という田んぼにしやすい地形の周囲の農家さんに田んぼを作るともっと儲かるけどなんで田んぼにしないのか、について書きました。
卒業してかなり経ってからのことですが、勤務先の日本植物燃料㈱での業務の一つとして、高橋先生がコーディネートする研修コースで、海外からの研修生にお話をさせてもらう機会がありました。このような機会を与えていただいて本当に感謝しています。
就職 矢崎総業㈱
進路はアフリカで雇用を産み出せるメーカーで働いて駐在員としてずっとアフリカにいたいなと思ってそういう軸で活動をしました。アフリカに工場を作りたいと言って採用されたのが矢崎総業㈱という自動車部品メーカーでした。途上国を中心に世界中に展開しており、アフリカ大陸では、南アとチュニジアとモロッコに展開していました。世界中どこでも工場を作れるような人になりたいと思い生産関係の部署を希望したのですがなぜか営業に配属されて愛知県豊田市の田んぼの中にあるビルに近所の独身寮から通う日々が始まりました。田んぼの中にポツンとあるビルに四六時中電気がついていたので不夜城と呼ばれていたらしいです。
最初の2-3年は、めちゃくちゃ残業して帰りに近所の中華料理屋でビールを飲んで朝気合を入れて出社するという感じでした。指示されたことをこなすことに必死でした。営業に配属されたことは結果としてはよかったと思います。年次の若いうちから様々が部署の人と話すことが出来たからです。振り返ると、先輩や上司や後輩や他部署の人たちとの思い出深いやり取りが本当にたくさんあって、矢崎の人材育成に関する文化は本当にすごいと改めて思います。研修制度が充実しているとかそういう点もレベルが高いのですが、どの部署にも不明点や疑問点をちゃんと明らかに出来る人がいて、その知識を惜しみなく提供してくれました。
就職して三年ほどたってなんとなく仕事のことが分かるようになってきて、もうすぐ30歳になるぐらいのタイミングで健康診断に引っ掛かりました。体重とか脂質とかが原因です。人生の大半はふくよかな体型なのですが、30を前にしてこのままだとひょっとして一生デブなのではと危機感を持ち始めました。結構タバコを吸っていたしこのままでは早死にしてしまうということで運動を始めることにしました。世間ではジョギングブームが始まっており社内の有志で5kmか10kmのマラソン大会に出ようという企画が持ち上がりました。「一緒に行く?」みたいな軽い誘いに二つ返事で行くことにしました。行くといった後に何回か本当に行くのか確認がありました。10kmも走ったら死ぬんじゃないかと心配されていたんだと思います。
そんな感じで軽いジョギングを始めて、社外のランニングクラブに所属している先輩に紹介してもらい名古屋のクラブのライズウインドに入れてもらいました。クラブではほぼ付きっ切りでケガをしにくい走り方を教えてもらい、ものすごい褒めて伸ばしてもらいまして見事にランニングにはまり、もっと走る時間を確保したくて仕事を早く終えられるように工夫したらほぼ定時で帰宅できるようになりさらにランニングにはまるというサイクルに入りました。ランニングにはまって二年目以降は月に200kmかそれ以上走っていたと思います。体重も30kg以上落ちて人生で初のスリム体型になりました。今はまた人生の最高体重に近づきつつあり、本格的な減量に取り組もうかなと思っているところです。
退職して青年海外協力隊へ
仕事面では定時で帰宅することに全力を尽くしていました。会社も残業削減の方向でその流れに沿ってはいました。ただ努力の方向性が悪かったのかだんだん仕事がつまらなく感じるようになりました。チャレンジングな業務や試したことがない方法や、そういう新しいことを削ぎ落して業務時間短縮を実現していたのである意味当然の帰結でした。正直、就職して数年経って、絶対アフリカで働きたいという気持ちは薄れていたのですが痩せて自信がついたのかアフリカに対する思いが再び湧いてきて、大学時代にダメだった青年海外協力隊を受験し直しました。一次試験にパスしたタイミングで上司に報告して二次試験にパスしたら協力隊に行く旨を伝えました。上司は社内に長期の休職など在職しながら派遣される方法があるかを探してくれましたが、当時そういうものはなく協力隊に行く場合は退職することになりました。今は在職しながら派遣される制度があるそうです。
そのタイミングでもう一つ上の上司から海外駐在の話をもらいました。駐在先はアフリカではありませんでしたが伸び盛りの国で仕事は確実に面白いはずでした。駐在の話を受けるなら翌月にはその国に行くことになる、ということでした。一晩悩んだのですが駐在の話を断りました。これで協力隊の試験に落ちたらどうしようとちょっとは思ったのですが、というのも面接で「サブサハラアフリカ以外の国の場合は辞退する」と言っていたのではじかれることもなくはないのかなと思っていたのですが、アフリカ以外考えられないモードに入っていました。もしも海外駐在の話が半年ほど早く来ていれば二つ返事で承諾していたと思います。結果的に協力隊の試験に合格して派遣国はルワンダかガーナを志望していたのですがなぜかモザンビークでした。そして6年間お世話になった矢崎総業㈱を退職しました。