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ひとりだけど、ひとりじゃない

ソロ活について書き始めた頃、“少しでも「一人じゃない」要素”があると、「ぼっちじゃないじゃん」と指摘されてきた。
当時の私は「ソロ活」ではなく「ぼっち」という言葉を使い、「見てください、ぼっち飯しています(笑)」のような自虐を交えた表現をしていたからというのもあるだろう。もう10年くらい前のことだ。あの頃のインターネットには「自虐」という“芸風”が確かに存在していて、仮にストレートに「一人って楽しい!」「ソロ活最高~!」と書いても、見向きもされなかったのではないかと思う。
時代の空気と、ウケたいという下心とが、私を自虐に走らせた。

同時に、それは自らを縛る鎖でもあった。
それに気づいたのは、最近になってからだ。

一人でいることが好きではあるが、人と過ごすことも当然ある。おそらく人よりはその頻度は少ないし、元気を出したいときに誰かに連絡することもない。周りに人がいないと寂しい、という感情はよくわからない。
ソロ活についてこれまで書いてきた文章に、ひとつも嘘はないのだが、少しでも「誰かとご飯を食べている様子」や、「大勢で遊んでいる姿」を見せると、「ほら、本当のぼっちじゃないじゃん」「ビジネスぼっちだ」と言われてきた。何十回も。目につく範囲外ではたぶん何百回も、鬼の首を取ったように言われた。ここが鬼ヶ島ならとっくに滅びてる。

「本当のぼっち」って何なんだ。釈然としないながらも、それが世界のお望みならば、と「ぼっちじゃない姿」はできる限り見せないようにした。まるで週刊誌に撮られないように気を張るアイドルである。私の中の秋元康が、私に人との交流を禁じた。人は皆、心の中に小さな秋元康を飼っているのだ。想像したらなんかすごく嫌だったから今のなし。
友達とご飯に行ったときも、友達は私と行った旨をSNSに投稿しているが、私はしない。
そもそも、「友達」という言葉を使うのすら憚られて、友達との間であった出来事なのに「知人」と書くことがよくある。
7年ほど前、「数人でワイワイお酒を飲む番組」に出始めた当初は、なんとなく悪いことをしているような気持ちになりながらコソコソと告知していた。
記事に載せた写真に私が一人で写っていたら、「カメラマンがいるから一人じゃないじゃん」と見知らぬ人に怒られたため、以後「※写真は自ら三脚で撮影/その場の人にお願いして撮っていただきました」といちいち注釈をつけるようにした。記事が公開された後に、追記で注釈を入れてから、「カメラマンがいるから一人じゃないじゃん」と投稿をしている人のところへわざわざ行って、いいねをしてくるという小さな反論もした。リプライは送らないけど、いいねをする。指先で送る君へのメッセージ。その早とちりしたツイート、悔い改めよ、という呪い願いを込めて、心なしか指圧を強めにいいねした。

かつて、「一人でいること」はみじめであり、いわゆる「弱者」とされていた。かなり強い言葉ではあるが、悲しいことにこれが現実だった。(敢えて「弱者」という言葉をこのまま使うが)「弱者」は“弱者らしく”いることが求められる。そこに少しでも弱者らしくない者が足を踏み入れると、テリトリーを荒らされるような気分になるのだ。私は昔、「ゲーム好き」を公表する美人の芸能人が増えてきたときに少しこういう気持ちになったことがあるから、わからなくはない。そんなの、なんかずるいじゃん!となったのだ。平成までのこの世は、あらゆるものが上下でジャッジされてきた時代だ。そんなものはくだらない、と誇りを持って一人を楽しむこともできたはずだが、そのくだらない感性に何よりも私自身が飲み込まれていた、と今となっては思う。

私だって、気の合う友達と会うのは楽しい。
自分のことを「人と接するのが苦手」だと思ってきたけど、もっと正確に言うと、「誰にでもいい顔をするのが苦手」なのだ。誰に対しても明るく、機嫌よく、誰かを好きだと思える範囲が広い人は、すごい。そういう、みんなから好かれる良い子になりたくて憧れたし、そうなるのが“正しいこと”だと思って、やろうとしてみたけど、ちっともうまくできなかった。
だから、「人間が苦手です」とまるっと避けて生きていくことにした。

するとどうだろう。人と接するのがだんだん怖くなくなっていく自分がいた。
周りには、私が好きだなと心から思えて、たぶん向こうも私を好きでいてくれる人だけが残った。ああ、なんだ、これでいいじゃん。人間関係で無理しなくていいんだ、と思えた。
「ソロ」を突き詰めてきたはずが、不思議なことに「対人」のほうに影響が出ていたのだ。

なのに。
友達と飲みに行っても、SNSに投稿できなかった。

常に「一人でいるように見せなければならない」と自分に巻き付けた鎖のせいだ。怒られるのが怖い。何か文句を言われるのが怖い。いつのまにか私の中で、それは呪いのようになっていた。
相反する感情、多面性、真逆の考え、誰しも当たり前にたくさんのものが複雑に絡み合っているはずなのに、SNSでは“一面だけ”を見せることを求められる。テーマに沿ったこと以外を発すると、途端に説得力がなくなる(ように見られてしまう)。まるで人工的に作られた魂だけの存在みたいだ。

それでも最近はたまに、人と飲みに行ったときに投稿をするようになった。

「ソロ活女子のススメ」のドラマで、主人公の五月女恵が、ほとんど友達のような同僚たちと仲良く接し、時には飲みにも行きつつ、ソロ活をしている姿に勇気づけられているのは、他でもない私なのだ。

「ソロ活の人」だけど、友達と接することがあっても、いいですか?

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