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あの海岸を馬で走ったりしたい【その②】

その①はこちら

さて、無事に大学に入学した私は、大学生活の花形になるであろうサークルないし部活動を決めるべく、ひとまず馬術部を見に行った。
北海道札幌市の中心部、地下鉄3駅分にわたる広大な大学の敷地内の一番北側、獣医学部棟の近くにその馬場はあった。

今思い返せば、かなり立派な馬場だったように思う。厩舎の隅っこにひっそりとナズナが生えていて、その隣にはずいぶんと人に慣れた様子の野良猫が、わずかな陽だまりを抱きしめるようにうずくまっていた。

結局、馬術部には入らなかった。
その大学は、1年目の成績で専門の学部が決まることになっていて、私は最初から農学部に入るつもりだった。北海道という土地柄もあってか、いかんせん農学部は大変な人気があり、進学するためにはそれなりの高い成績が求められたため、どうしても馬術部で求められる活動の内容――朝4時に起きて、毎日誰かしらが厩舎に寝泊まりしなくてはならないという話だった――と勉学の両立ができそうになかったためである。

私は大学1年の間、どこのサークルにも属すことなく、バイトもほとんどせず、勉学に明け暮れ、無事に農学部に進学した。いざ、馬術部に入ろうかと思ったものの、いわゆる体育会の部活動に途中で加入する根性もなく、また自分で乗馬サークルに通うような財力もなく、馬に対する気持ちは脳みそ内の「思い出ボックス」にきちんと畳んでしまいこまれ、淡々とした日々を過ごしていた(ちなみに、大学1年の頃参加した新歓で知ったカヌーサークルに奇妙な魅力を感じ、2年生から加入することとなるのだが、それについてはまた追々語ることにする)。

そして、あの日。今でも鮮烈に覚えている。
どこかひやりとするような、北国独特の夏の昼下がり。夏休みで、ひっそりと静まり返った農学部棟には、研究に勤しむ大学院生がどこか遠くで話している声が時折聞こえるくらいである。
大学3年で研究室に配属された私は、4階の図書室から1階の研究室に戻る途中だった。手すりがやたらと重厚な、古びた正面階段を降り、踊り場にある掲示板に何気なく目をやって、私は文字通り動けなくなった。

「馬と旅する」

掲示板の右上を飲み込むような、淀んだグレーのポスター。
シンプルなデザインの右上に、白抜きの明朝体で、その一言が書かれていた。

押し入れが一気に開いた、そんな感じだった。私は言い知れない高揚と噴き出す感情に眩暈がしそうだった。
馬と旅する。馬と旅する。馬と旅する。

そのフレーズは脳裏に焼き付いた。いや、焼き付くというより、元々あったものが突然浮き出てきた、そんな感じだ。よくみると、曇り空のように見えたそのデザインは、馬たちが猛然と走っている姿であった。

そうだった。私は、馬に乗りたいんだった。

私はすぐにそのポスターの詳細を調べた。
NPO法人が主催しているツアーで、中国の内モンゴル自治区に行き、遊牧民と共に数日間馬に乗って旅をするツアーということだった。
春と夏の2回開催されていて、夏のツアーはちょうど終わったばかりだった。次の機会は春、3月だった。
大学3年生の3月といえば、当時は就職説明会がちょうど始まる時期だった。大学院に進学する気はなかったので(学費を親に払ってもらっていたこともありこれ以上親のすねをかじりたくなく、自分で払うほど大学院に行きたくもなかった)、3月のスタートダッシュにのんびり旅なんてしていることは、あまり望ましくないように思えた。親からも、やんわりと止められたのをよく覚えている。

それでも、結局私はそれに参加することにした。見る人が見れば些細なことかもしれないが、それは私にとってほとんど初めてといってもいい、「リスクの大きい」あるいは「外れた」選択だった。

少し話はそれるが、私は人からの、特に親からの反対を受けると、基本的にそれを振り切ることができない。
両親はともに、私の決断を最大限に尊重し、何かを強制したり、理不尽なことを言ってきたりすることは決してしない、非常に尊敬できる両親であるし、とても恵まれていると思っている。
すなわちこれはもはや、私自身が搭載しているOSのバグみたいなものなのである。プログラムの基本仕様の問題なので、自覚はあるのだが、なかなか修正がきかない(現在鋭意努力中だがあまり効果はない)。なんか薬とかで治ればいいのに。

ただ、ごくごくまれに、このバグを乗り越えられるときがある。このツアーに、就活のスタートダッシュを捨ててまで参加するという行為は、まさにそれほどやりたかったことであり、ささやかな私の歴史に残る決断の一つである。
こうして私は、そのポスターとの出会いから8か月後、中国の荒野に降り立っていた。


■草原を駆ける
そのツアーは、大阪の港から丸24時間以上かけて上海まで船でたどり着き、そこから夜行列車で北京に移動し、さらにバスで呼和浩特(フフホト)という地方都市にたどり着くところから始まる。スタートラインの町に降り立つまで3日くらいかかるというわけだ。研究との都合もあり、さすがにそこまでのゆとりが作れなかったので、私は呼和浩特まで飛行機で1人向かうことにした。
上海で国内線に乗り換え、呼和浩特の地方空港に降り立つと、黒くて四角い眼鏡をかけ、きょろりとした丸い目に、おんなじくらいつるりとした頭のオジサンが、私の名前の書かれたボードを持って立っていた。
「もうツアーの参加者たちは馬に乗っているので、途中で合流しましょう」
日本語がペラペラの彼の車に乗り、私は遥か草原に向かって出発した。海のように続く荒野は穏やかな起伏があって、その隙間隙間に崩れかけたレンガのかたまり(後から知ったが、これが遊牧民の家だった)が沈むように点在していた。

彼は何もない道のど真ん中で、まるで目印を見つけたみたいに急に車を止めた。
促されて車を降りると、北海道とは比べ物にならない大陸の冷たい風が躍っていた。土埃があんまりひどくて、私は笑いだしそうになった。

遠く一点、黒い塊のようなものがあった。段々こちらに近づいてくる。目を凝らしてそれを見て、はたと気づいた。
――馬だった。30頭ほどの馬の群れがすごい勢いでこちらに駆けてくる!その背には人が乗っていた。私は夢中になって、コマ割りくらいの密度で買ったばかりの一眼レフのシャッターを切った。
そして次に、音が来た。120もの蹄が乾燥した土を叩く音は、これまで聞いたどんな演奏よりも激しく命にあふれ、生々しかった。私の心臓は同じリズムで高鳴った。あの中に今から入るのだ。

たくさんの蹄は見る見るうちに私に近づいてきた。近くで見るその光景はなおのこと圧倒的な迫力であった。日本でこれだけの数の馬が一斉に走っている様子を、コンビニのレジくらいの距離で見るという状況は、ほとんどありえないことだった。私は目の前を通過する馬たちのエネルギーに、驚きと憧れでうっとりした。

群れの中、ひと際前に出ている馬があった。乗っているのは黒い革のジャケットにサングラスをかけた男性で、主催者だとすぐに分かった。
彼は巧みに馬を操り群れ全体のスピードをゆっくりと緩めさせ、やがて停止した。
降り立った彼に自己紹介をし、乗馬経験者だと伝えると、レクチャーもそこそこに早速馬に乗ることとなった。

日本の乗馬クラブでは、通常、よく調教されたサラブレッドに乗る。彼らは誇り高く、他の馬が近づきすぎることを嫌うので、馬と馬の間は1馬身(馬1頭分)空けるのが常識だ。もちろん馬の性格にもよるが、前の馬が突然後ろの馬を蹴ることもある。体が大きいので揺れが大きく、乗り手としてははなかなか大変である。また、手綱が緩まると頭がうまく支えられなくなり、バランスを崩して駆足をやめてしまう。長く駆足をさせることが結構難しいのだ。
一方、モンゴル馬はサラブレッドよりも小型で、群れで過ごすことに慣れており、どれだけ他の馬が近づいても全く動じない(むしろ、他の馬と離れないように動くことの方が多い)。走るときも、他の馬が走ればそれに追従するように走る。乗り手はとりあえず乗っておけばいいという意味で、サラブレッドよりも初心者がいきなり乗って駆足をすることができるという特徴がある。
ただ、(これは個人的には非常に魅力的な点だが)モンゴル馬は、調教が飼い主によって様々で、馬によって性格がてんで違う。絶対に先頭にいたい馬、先頭にはなりたくないが2番目くらいにいたい馬、特定の馬のそばから離れたくない馬。「止まれ」の指示にしても、ある馬はシンプルに手綱を引けばよいが、ある馬はちょっと上向きに引かないと止まらない、ある馬は足できちんと圧をかけないと止まらないなど、乗ってみないとどんな馬かがわからないのだ。これは本当に面白いところだと思う。

ツアーの中では、希望すれば様々な馬に乗り換えていくことができる。
前述の通り、馬の性格が色濃くあるので、乗り手の相性も顕著である。
私なんかは、それなりに走らせたいタイプだがあまり無茶はしたくなく、馬への指示にあまり遠慮がないので、「先頭にはなりたくないが2番目くらいにいたい馬」「怒ると言うことを聞く馬(≒怒らないと言うことを聞かない馬)」が比較的合っていた。
相性がしっくりくる馬に巡り合えた時の喜びは計り知れない。このときのツアーで、私は紫色の手綱を身に着けた小型の栗毛の馬(仲間内では、ちびくろと呼んでいた)をすっかり気に入り、ほとんどその馬に乗っていた。ちびくろは、あまり駆足はしないが、速歩がとびきり早い馬だった。
馬に乗っている時間が長い遊牧民たちにとっては、駆足が速い馬よりも、速歩が早い馬の方が良い馬だとされている。速足の方が、馬にとっては体力を消耗しないので、長く走れる走り方だからだ。そんなエピソードを聞いて、私はちびくろのことがもっと大好きになった。

ツアーは、午前と午後いずれも馬に乗りっぱなしで、3~4日ほどの短いもの(駆足が中心)もあれば、10日ほどキャラバンをするもの(距離移動がメインで速歩が中心)もあった。私がそのとき参加したのは、その合体版のようなもので、前半は駆足が中心、後半はキャラバン(まさに“馬で旅する”ツアー)だった。約2週間、1日6時間くらい馬に乗っていたと思う。合宿タイプの自動車学校なら免許がとれる。

モンゴルには水道がない。したがって水はすべてペットボトルの水を使う。
トイレもその辺の茂みでするし、風呂も入れない。
日本の生活からすると考えられないが、2週間もやっていると案外慣れてくるもので、むしろ上海に戻った時、掃除されていないトイレの方がよほど汚く感じた。

遊牧民たちは中国語しか話せないので、ほとんどコミュニケーションはできなかったが、とにかく酒が強かったので夜はひたすら酒を飲んでいた。バイジュというバカげた度数の酒を飲み、毎日ぐでんぐでんだった。せっかくなので買って帰ったが、日本で飲むバイジュはあんまり不味く、ひどく驚いた。
食事は、羊肉とジャガイモとかさかさのパンがほとんどだった。旅の途中で、羊の解体も見た。彼らは1頭の羊をひっくり返して、手にしたナイフで息の根を止め、腹をさばき、血を抜き、首を切り落として私たちによこした。その手さばきがあまりに素早く見事なので、よく作りこまれたショー見ているようだった。光を失った羊の目と、血まみれのナイフが彼らの日常なのだと、私はぬらぬらと光る内臓を舐めながら思った。その晩は羊を丸焼きにして食べた。尻の肉が絶品だった。

遊牧民たちは、額にマジックで「肉」を書くという、かなり古典的なギャグで涙が出るほど笑っていて、娯楽が少なすぎるんじゃないのかと心配になるレベルだった。衣服はボロボロなのに、なぜかスマホを持っていて、風刺画みたいにちぐはぐだった。

言語が違うので、まともな意思疎通はできなかったが、2週間も一緒に旅をしていると、なんだか不思議と仲良くなれた。彼らは、私の常識の外の日常で生きているのだと、当たり前のことを思った。

私はそのようにして、草原を馬で駆けることの喜びと、モンゴルの美しさを、魂で知ってしまったのである。

長くなったので、もうちょっと続きます(かきたいことがありすぎる)。

画像フォルダを探して発見した当時の画像。
紫の上着を着ているのが私で、乗っているのがちびくろ

その③はこちら

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