見出し画像

混沌と愛の国インド、美しき冬のラダック旅 ① 出発準備

 11月23日(水)。私はほんのりと冬の香りが漂う東京を、亀の甲羅のようにぷっくりと膨らんだバックパックを背負って歩いていた。

 なぜそのようなことになっているかというと、仕事を辞めたからだ。いわゆる転職である。このあたりの混み入ったお話は別の機会に譲るとして、今から書くのは、有休消化というプチモラトリアムを手にした私の旅行記である。

 平日に長い期間休みを取れる知人などいなかったので、私は当然に一人でその時間を過ごさなければならなかった。また、友人の結婚式があり、12/4の日曜に東京にいなければならないことから、私のプチモラトリアムは11月後半と12月いっぱいの2タームに分けられることとなった。さて、どこに行こうかと思いあぐねて、私はふと、父が好んでいた「インド」という国に思い当たったのだ。

 インド。とんでもないカオスの国、観光客を食い物にしまくる国、めちゃくちゃお腹を壊す国、行った人によって印象が全く異なる国。なんとなく、旅行好きを名乗るからには、行っておきたい場所だとかねてから思っていた。そしてもう一つ、実は私の名前の由来は、インドのとある山奥にある地名にあった。それを聞いて以来、一度は行かなければならないと思っていた場所。思いっきりシーズンオフであったが、おそらく誰も同行してくれない国、そして地域であることを鑑み、この機会に行ってみることにしたのだ。

 インドは、まず出発する前の準備として、e-VISAの取得が必要であった。オンラインでできるようになったおかげで、幾分か楽にはなっていたものの、写真のサイズがどうだとか、背景の色がどうだとか、死ぬほど記入する項目があり辟易した(やけくそで5年有効のVISAをとったので、5年以内にもう一度行くつもりである)。

 そして、今回行く場所は、インドの中でも中国やパキスタンとの国境にほど近いエリア、「Ladak(Leh)」であった。この場所は、実は標高が3000mを超える場所で、冬季はマイナス20度を下回ることもある。幸い11月であったため、真冬の北海道より少し寒いくらいのレベル感だったものの、十分な寒さ対策を検討する必要があった。また、標高3000mのところにいきなり飛行機でぽつんと落とされることから、多くの旅行者の悩みのタネが「高山病」である。症状がひどいと死に至ることもあることから、これもどのような症状があるのかなど、十分なリサーチが必要であった。

 これらを、退職間際のどたばたの中でなんとかこなし、23日、晴れて私は羽田空港に立っていた。航空会社は天下のJALである。全てのサービスに対する安心感は並々ならぬところがある。

 飛行機に搭乗すると、週のど真ん中だからか、随分空いていた。10時間の旅である。乗客たちは、空席となっている隣席を全て使って横になるなど、かなりフリーダムな過ごし方をしていた。私は初めてのインド、そして実は初めてのひとり旅での海外に緊張し、「地球の歩き方」を熟読していた。デリーの空港からホテルに移動するときに手酷く騙される旅人が多いと聞いており、割高とわかっていながら空港送迎を予約していた。ただ、予約すれば安心というわけではないのがインドだろうと思っていたので(そしてその認識は後から身をもって証明することになる)、とにかく不安でいっぱいだった。心臓が小さい割に変なことをしたがるきらいがある。

機内食がおいしかった。ハーゲンダッツもついてきた。
さすがJAL。

 とはいえ、LEHのことはとても楽しみだった。なんとかDELHIを生きて乗りきりたい。私は最後の安全地帯である飛行機の中で伸びをした。

 やがて飛行機は無情にもDELHIに到着した。飛行機を降りてから、空港WI-FIを使おうとしたが、電話番号にPIN CODEが届かず繋げられないという状況に陥り、私は冷たい汗を背中に感じた。電波がなければ、送迎サービスの利用に向けた連絡を取ることは難しいだろう(事前に、ARRIVALで待っていてくれるよう頼んだのだが、安宿だからか当日到着時に連絡するほかに方法がないようであった)。幸いにも、インドは日本から事前にSIMカードを買って行くことができる国である。このような事態に備えて買ってきていたSIMカードを震える手で差し込むが、なぜか読み込まない。私は本当にだらだらと汗をかきながら、入国審査を待っていた。たまたま、後ろに日本人の女性が一人並んでいた。この人のWI-FIを借りて接続方法を確認することはできるかもしれない。迷ったが、背に腹はかえられぬ、私は意を決して話しかけた。

 彼女は医療機器の営業でインドやアフリカを頻繁に旅する快活な女性であった。快くWI-FIを貸してくれ、焦っている私に本当に優しく接してくれた(数分の検索の結果、シンプルに再起動のし忘れであったことが判明した)。彼女はこれから国内線でインドの南部に飛ぶということらしかった。心から感謝と旅の安全をお祈りし、私は謹んで順番を譲ったのだった。

 なんとかインターネット環境に接続することに成功した私は、ホテルにコンタクトを取った。電話はできないので、到着時にメッセージをする話になっていたのだが、いざ当日になってみると電話番号が送られてくるばかりで一向にコミュニケーションが成立しない。さあどうしようとなったところ、WI-FIを貸してくれた日本人女性が「What’s appで電話できますよ」と教えてくれた。天啓である。オーマイブッダ。

 私は嬉々として宿に電話をした。インド人の英語は早いし発音が独特で全く聞き取りにくかったのだが、なんとか意思疎通をはかり、タクシーを向かわせてくれることになった。

 私は待ち時間に絶望的な両替所のレートを確認して速やかにATMで海外キャッシングを実施し、薬局で高山病の薬(ダイナマックス、という)を購入した。犬がうろつきクラクションが鳴り響くロックな空港でぼんやりと(とはいえカバンはしっかりと抱きかかえて)待っていると、ドライバーから電話が来た。ゲートの番号は一緒なのにお互い見つけられないという全く謎の状況であったが、どうやら彼はDEPARTUREに来ているらしかった。何考えてんだこのインド人頭おかしいのかと思いながらも、指示通りDEPARTUREに向かい、なんとかタクシーをゲット。奇しくも、日本がドイツ戦に歴史的勝利をしたタイミングとほぼ同じであった。私は日本の勝利と自らの勝利に内心ガッツポーズをきめた。なお、ここまでで緊張しすぎて、インド駐在の友人のために購入した日本のラーメンセットを空港に思いっきり忘れるなどの失態を犯した。ラーメンを供物に捧げて安全を手にしたと思うことにした。

 あちこちに電線がだらしなくぶら下がり、幼稚園生の描いたクレヨンの絵みたいにダイナミックな路面を上下しながら進んで、ようやくホテルにたどり着いた。一泊1000ルピー(1800円)程度の安宿である。ただ、空港送迎が1000ルピーもしたので、本当に高い送迎サービスであった(二度と使わねえ)。

 部屋は、シーツにいくつかのシミがあることと、ごみ箱やトイレットペーパーがないことを除けばそれなりに綺麗であった。試しにお湯を出してみると、暖かいお湯が出た。シャワーは壊れており、蛇口からしか出なかったが、今更フロントに交渉するのも面倒だった。LEHでお湯が出るかわからなかったので、頼りないお湯でもひとまず体は綺麗にしておこうと考え、私は思い切って頭を洗い始めた。ところが案の定というべきか、蛇口から流れる水の温度は行きつ戻りつしながら着実に下がっていき、シャンプーを流す手前でついに完全なる水となった。私は奥歯を噛み締めながらシャワーを完遂し、冷えた体をシミ付きのベッドにもぐりこませた。少し時間は早かったが、翌朝の飛行機の時間が早かったので、その日はそのまま寝てしまった。

見かけはそこそこ綺麗

 部屋の外ではインド人が定期的に大声で喋り散らかし、犬はわんわん吠えていた。夜中に2回ほど、ブザーのような音が鳴り、開けられたらどうしようと息を潜めた(もちろん、バックパックで入口の扉はしっかりと塞いでいたが、本気で入ってこようと思えばいくらでも手だてがありそうだった)。幸運にも侵入者はなく、なんとかインドの初日を終えたのであった。
 DELHI、全くもって油断ならない街であった。次回はLEHに到着します。

この記事が参加している募集

あなたが思ってる以上に励みになります!!!!