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言葉という芸術

言葉が好きです。

見た目やフォントが違っても本質は同じはずなのに全く異なったものに見える不思議。

コピーライターが好きです。

名言に影響されやすい人間です。

日常には言葉が溢れていますよね。

会話も言葉、LINEの返信も言葉、
人を傷つけるのも言葉だし、人を元気付けるのも言葉です。

性質は実に多種多様で、流行に伴い言葉も増えています。
増えています、というのは間違いかもしれませんね。
略語などによって言葉の数は減っている時もあります。

僕は趣味で英語を勉強しているのですが、やはり言語が異なると難しいです。
でも日本語を英語へ、英語を日本語へと訳すときによく思います。
日本語って便利すぎて難しい、と。

最近、「やばい」という単語を都合よく使いすぎているなと思います。
「あの人のダンスはやばい」
「あれやばくない?」
「景色がやばい」
など、「やばい」という言葉によって
言語化できる機会を損失させてしまっている気がします。
便利なのですが、少し寂しくないですか?

せっかく「やばい」という言葉以外の表現の仕方があるのに
それを諦めて、シンプルな単語に収めてしまうのは勿体無いです。
思考停止をして「やばい」で終わらせずに、
「やばい」以上の言葉を引き出して表現したいものです。

日本人特有の言い回し、日本人特有の美意識や気概があります。
もちろん外国にもあります。

しかし日本は色々な文化が混ざり合っています。

クリスマス、ハロウィーン、元旦、バレンタイン、
宗教も何も関係なく他国から輸入したイベントをただ消費しているのを見ると、
時々自分は何人なのかわからなくなります。

アメリカやヨーロッパは自分たちの文化に軸があるように見受けられます。

自国を愛し、伝統を大切にし、それが日常に溶け込んでいるように感じるのです。

文化の軸があれば、ぶれることはなく自分がぶれることは少なくなるのではないのでしょうか。

色々な文化が混ざり合う日本では自分を見失うのは当然かもしれません。
どれも正解でどれも自分かもしれません。

正解やロールモデルを見つけるために人は自分の外の世界に触れ、経験し、
自分を作るパーツを拾っていくのだと思います。

時代を飛び越えて、文化を飛び越えて、はたまた現実を飛び越えて、
多くの世界に触れることができるものが本であると思います。

本は学びであり、芸術です。

僕の好きな作家さんの一人に糸井重里さんという人がいます。

Motherシリーズの脚本を考えたり、TOKIOの歌詞を書いたり、
活動は様々ですが、主にコピーライターの仕事をしています。

糸井さんの言葉には毎回心を動かされます。

僕らがいつも使っている同じ言葉なはずが、全く違うもののように感じるのです。

原材料、素材が同じはずなのに完成したものが全く別のものという感覚は面白いです。まるで錬金術かのように。

名言も同じです。

何故、あれほどまでに人の心を動かすことができるのでしょうか。

言う人によっても言葉の重みは変わりますね。
言葉に自分という存在が乗っかるからだと思います。

だから自分という存在の厚みが増すほど、言葉の威力は増すでしょう。

僕が厚みのある人間になれば
「バナナ食べたい。」
という言葉でさえも重みが生まれるかもしれませんね。

言葉は芸術です。

デザイン、大きさ、色、
文脈、言い回し、比喩、
形や性質の変え方は様々です。

日本人である軸を見つけ、日本語という芸術を使いこなして遊びましょう。

コストはゼロです。(生み出し放題!)

誰かの辞書に残すことができる言葉を生み出せたなら、
これ以上の幸せはないでしょう。

最後に僕のプロフィールにもなっている言葉を残します。

「なんか むつかしいことを かんがえよう。これからのぼくは。」
−マザー2 どせいさん–



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