頑張りすぎて孤立してしまう臨界点が人を頼る基準なのかもしれない
困っていそうだから助けてあげたいと思ったとしても声をかけづらいタイプの人がいる。
それはなんでも自分で頑張りたがるプライドが高そうに見える人。
どんなところからそう映るのかというと
・普段から忙しさや大変さをアピールしがち
・忙しさや頑張ってる姿を話すことで賞賛されると喜ぶ
・大変と言いながら人に頼むことをしない
このような行動を見ると頑張っていることに価値を置いていて、できないことを認めると自分の価値が下がると勘違いしている人なのかと思って、声をかけるのを躊躇してしまう。
なぜならもし手伝いを申し出たとしても基本的には断られる可能性も高く、自分一人ではできないと認めることはその人にとっては「私はできる」という自己イメージに泥を塗ることになりかけないから。
何でもかんでも抱え込んで大変アピールをしたとしても、その後手伝いをお願いする人であったり、申し出た手伝いを受け入れる人であれば、次からも困った時に助けてもらいやすいが、大変といいながら自分一人でやろうとする姿を見せてしまうと、周りは声をかけづらくなる。
私もその傾向があり、心の中で自分でできることが正しいこと、偉いこと、人に頼むのは迷惑をかけることと思いがちだからこそ、そんな自分とよく似た人に出会ったことで、私もこんな風に見えているのかもしれないと思い至った。
周りはいつでも手を差し伸べる準備はできている。
でも本人が気づかなかったり、それを受け取ろうとはしない。
自分だけが頑張って周りにはこんな思いをさせまいと一人で背負うことを正義だと感じている可能性もある。
でも最近つくづく思う。
自分のことは自分でできるに越したことはないけど、大人になるにつれて人を頼らないと首が回らなくなるほど抱えるものが増えていくのを痛感し始めている。
しかしそうはいいつつもやっぱりお互いに大人でお互いにたくさんのものを抱えて大変なのが想像できるからこそ、頼みづらいというのもある。
一人で抱え過ぎる人が気持ちよく人にお願いし、気持ちよく人を助けることができたから、もっと生きやすくなるだろうと自分のことも含めて思わずにはいられない。
頑張りすぎて周りが楽しているように見え、他人にイライラし始めたら、それはすでに自分が抱えていることが自分のキャパシティーを超えている(無理をしている)サインだから。
たとえ認めたくないとしても。