自分のことを知ってほしいと思う気持ちの裏にあるもの
精神科か心療内科、どっちを受診すればよいのか、発達障害の診断をしてくれる病院はどこにあるのかを調べていたら、心療内科で聞かれる質問の理由について書かれている記事を見つけた。
それを読み進める中で心の中に沸き起こったのは「もっと聞いてほしい」という気持ち。
どれほど大変だったのかをわかってもらいたい。
本人は自分のことを正当化しているが私にとっては苦痛だったし、苦痛を与える言動であることを客観的な視点からも認めてほしいという気持ちがあることに気づいた。
とにかくどれだけ辛かったのかをわかってくれる人を探していた。
でもそれで私はどうしたかったのだろう?
もしわかってもらえたらやっとこの苦しみから解放されるんだろうか?
認めてもらえると自分は何も悪くなかったと認めてもらえたことになると思っているのかもしれない。
つまり自分が悪いという自責の念から解放したいと思っているということだ。
ただ自分としては普通にしてるだけなのになぜか意地悪の標的にされ、蹴られたり、暴言を吐かれたり、無視されたりしてきた。
仲良くなった人とはいつもクラス替えのたびに縁が切れがちで、本当は友達でい続けたかった人たちとずっと繋がっていられなかった。
私は好きだけど相手はそこまでじゃない関係が多かった。
だから私は自分には魅力がない、他人より劣っていると思うようになった。
自己否定感が強まるにつれてどんな出来事も攻撃されていると受け止めることが増え、自分の発言は無視されると感じるようになった。
ずっとどうしたらこの生きづらさから解放されるのかを探し続けてきたけど、たどり着いたのは発達障害の疑い。
アダルトチルドレンも、社会不安障害も適応障害も発達障害も、そのどれもが自分の状態に当てはまり、薬で治るものなのか、環境が変われば変われるものなのか、認知行動療法を受ければ変われるものなのか、もうどうしようもなく付き合っていくしかないのか、その答えを知りたい。
見た目にわからない障害がある人がつける白十字のマークをつけたい気分になる。
あれをつけたからと言って周りが優しく接してくれるとは限らないしむしろ弱点を露呈している分、またそういう人を選んで攻撃したがる人間のターゲットにされかねないとも言える。
私は自分の人生が辛かったことを「そんなことをされたら嫌だよね」「それは辛かったね」「大変だったね」と認めてほしい。
もっと大変な人がいるとか、大変な状況の人がいるとか、わかってる。
でも辛さは本人の感情であって他人と比較するものではない。
自分にとっては大したことがなくても人生経験の少ない子供にとっては転んで足から血が出ることは一大事で大泣きするに値するほど驚くし、怖いもの。
どうしたらいいのかわからないから大泣きして気を引いてどうにかしてもらおうとする。
そういうのが許されるのは子供時代だけ。
それが子供時代にも許されなかった私みたいな人は子供心を卒業できないまま体だけ大人になる。
すべての人がそうではないようだから私のどこかが間違っているのだろう。
頭ではわかっていても心が甘えたがっている。
「これを満たしてからじゃないと納得できない!」と怒っている。
でももうそれをしてあげられるのは自分しかいない。
精神科医や心療内科医を頼ったとしても彼らは親じゃない。
甘えたかった時期への未練を何十年も抱えてこじらせて人がいる場所が怖くなった。
ものすごく気合いを入れないと近づけない。
目を合わせるのが怖い。
というか見ても目が合わないから傷つく。
とにかく人がいると傷つけられることがあるから怖い。
だからこそ親切にされた時は涙が出てしまうくらい感動してしまうことがある。
自分のことをあたたかい目で見て笑いかけてくれる存在がいると胸がいっぱいになる。
残念ながら伴侶はそうではないこともずっと精神的に不安定になっている原因だと思っている。
だからこそ余計に子供に傾倒してしまうことも自覚している。
子供たちはこんなにみっともなく情けない私のことを親として愛してくれていて、まっすぐに目を見てくれる。
子どもたちのためにも働きに行きたい気持ちと子どもたちのためにもいつでも動けるように主婦でいたい気持ち、働くなら在宅でいたい気持ち、子供優先で働けるところで働きたい気持ちがある。
立場が違うと相手のことが悪く映る女同士のいがみ合い、足の引っ張り合いの中にはもう身を置きたくない。
私の気持ちをわかってほしい。
どんな人生だったのかを知ってほしい。
本当は誰に知ってほしいんだろう。
知ってもらうことでお互いに支え会える仲間を見つけたいのかもしれない。