
戦後80年終わらない戦争。宮崎空港での不発弾爆発
昨年10月2日、宮崎空港で地中に埋まっていた戦時中の不発弾が爆発し、滑走路と駐機場をつなぐ誘導路が陥没しました。
国交省や陸上自衛隊などによると、爆発したのは米国製の250キロ爆弾で、空港東側の誘導路で、長径約7メートル、短径約4メートル、深さ約1メートルの楕円形の穴があきました。
宮崎空港は1943年、前身である赤江飛行場が旧海軍によって建設され、太平洋戦争中に空襲を受けました。
その後、54年に航空大学校の訓練飛行場として開港しました。
米軍の記録によると、この飛行場に空襲が集中した1945年4月中旬からの1ヶ月で爆弾約2300発が投下されました。
これまでにも、2011年11月に誘導灯の設置工事中に250キロ爆弾が見つかり、約4時間滑走路が閉鎖されました。
2021年6月には、駐機場のアスファルト張り替え作業中に1トン(推定)爆弾が発見されています。
不発弾は衝撃を受けずに自然爆発する可能性があります。
今回爆発した不発弾に装着されていた信管は時限式とみられます。
溶解液が入ったガラスが割られると、ストッパーのセルロイドが液で徐々に溶け、時間を経て爆発に至ります。
通常の信管に比べて細かな部品が引き金を支える仕組みで、不発弾になった場合より不安定だとされます。
今回の爆発は不完全だったとされましたが、本来の規模で爆発すればより被害は大きかったでしょう。
爆発した地点は航空機の翼が通過することがあり、爆発の2分前に乗客を乗せた民間の飛行機が誘導路を通過していました。
戦時中の不発弾は戦後80年経っても全国各地で見つかり続けています。
10月3日にも那覇空港で不発弾が見つかりました。処理は陸上自衛隊が担当していますが、1972年~2022年度に処理した不発弾件数は全国11万7856件で、計4487トン。
直近の5年間でも毎年1千件以上の処理が行われています。
23年度は2348件でした。
不発弾が最も多く見つかるのは太平洋戦争最大の地上戦が行われた沖縄県です。
「鉄の暴風」といわれるほど激しい砲爆撃にさらされた沖縄では、約20万トンの弾薬が使用されたとみられ、約1万トンが不発弾として残ったと推定されています。
米軍統治下の沖縄では、情報が周知されず、不発弾の事故で704人が死亡し1223人が負傷しました。
1972年の本土復帰後も、74年には那覇市の幼稚園そばの工事現場で不発弾が爆発し、3歳の女児ら4人が死亡。34人が負傷しました。
この事件をきっかけに国や県が不発弾処理に力を入れるようになりました。
処理隊は約50年かけて1800トンを処理しましたが、全部の処理には何年かかるかわかりません。
国内の空港は日本軍の基地がルーツになっているところが多くたびたび不発弾が出ています。97年に名古屋空港、2012年には仙台空港で見つかりました。
国土交通省は宮崎空港で本格的な調査を始めました。
滑走路・誘導路の路肩部分などを磁気探査します。
宮崎以外に那覇や松山など、かつて不発弾が見つかった4空港も調査する計画です。
時限式の爆弾が投下された地域は米軍の記録からもわかります。米軍の攻撃に関する公文書を読み解く取り組みも始まっています。
「海の地雷」といわれる機雷も数多く残っています。
米軍は海上物流の遮断を狙い、1万2千個もの機雷を日本周辺の海にまきました。
うち本州と九州の間にある関門海峡には五千個近くが集中的に投下され、今も1千個以上が残っていると言われています。
終わらない戦後処理。
一度戦争を始めたらその影響がなくなるまで気の遠くなるような時間がかかります。
大事なことは戦争をしないことです。
執筆者、ゆこりん