28 人生に理由は要らない
前回は、自分の人生は自分だけのもので、仕事のような上辺のカバーを外したところにあって、自分自身にはとても大切。なのにその部分について社会も自分自身も軽視しているのではないかという話でした。
では、自分だけの人生ってどうしたら良いの?、という事になります。私はうちの猫たちの生き方が参考になるのではないかと考えます。うちの猫たち、うちにいて何かをする義務のようなものはありません。寝たい時に寝て、食べたい時に食べ、遊びたい時に遊び、かまって欲しい時に寄って来て、ブラシをかけて欲しいと要求しています。えっ?、それって「何もしていない」って事では? そうです、私や他人から見ると確かに何もしていません。食っちゃ寝です。
でも、本当に何もしていないと言えるかというと、そうとも言えません。何もしていなくてダラダラしているように見えるのは、「見える」という視点があるからです。本人(猫)からすれば、「している」のです。つまり、大切なのは、「他人にはわからない」という点です。その猫が猫の自分自身として生きている意味や考えている事など、ずっと一緒に生活している私にも全くわかりません。猫は説明してくれませんし、してくれてもわからないでしょう。それが大切なのです。「わからない」がです。
なぜなら、それは猫の人生だからです。人の場合はなかなかそうはいきません。他人は私が何をしているか言葉でわかる事を求めますし、私自身も他人に説明できる事をしようとしてしまうからです。それが自分自身の人生には全く意味の無い事でも、なぜかそうしたいと思ってしまいます。
他でもちょっと書きましたが・・・ 私が仕事を辞めて失業して実家に帰った時に母は言いました。「良い歳の男が平日の昼間からぶらぶらしているなんてみっともない。皆が仕事しているのに! 家から出ないでちょうだい」母は私が他人から見て何をしているかわからないという事に我慢がならなかったのです。「仕事をしている」という単純な言葉で説明できる状態であれば良いのです。私自身は仕事をしていない事は別にかっこ悪いとは思いませんが。自分の人生にとって良い時間を過ごせないのであれば仕事を続ける意味は無いのですから。
母とは全く反対の反応をする人もいました。これも私が仕事をしていない時期で、次に何をやるか考えながら海外に出て英語を学んでいた時の事です。私は安い小さなホテルに住んでいましたが、同時期にアメリカ人の旅行者ご夫婦が来ていて朝食の場で一緒になって話す機会がありました。私が仕事が無くて次どうしようか考えながらここにいると言った時、その方(女性)は言いました。「あら、それは良かったわね」自分の時間が持てて、そして次に何をするか選べる時間を持って良かったという意味です。日本人ではなかなかそう考える人はいません。
再び日本人の方へ戻ります。私が海外で家を借りて住んでいた時には、旅行で来られる方がよく私の家に来ました。放浪しているというか、バックパッカー、自分探しの途中の方々です。日本人がいるという事で話をしようと来てくれるわけです。その中で、特に男性の方々の自己紹介が特徴的でした。ほぼ全員がこうです。「私は○○の仕事をしてきましたが・・・」要はそれを何らかの理由で辞めたというのです。学校の先生、医薬品の研究、デザイナー・・・いろいろでした。辞めた理由よりも○○をやっていたという方に話の重点がおかれます。仕事がその人のアイデンティティを構成する大切な要素だとわかるわけです。ですが、それはその方の殻だったもので、今のその人とは関係ありません。私は面接官ではないのでそれを聞かされても仕事を紹介したりはしませんし。簡単な言葉で言える、そして他人にわかるそうしたものがいかに人にとって重要であるかがよくわかりました。
つまり、私たちは自分自身を他人に説明する必要があると考えていて、説明する為に仕事のような自分の中身でない殻を使うのです。いつかは自分自身でか、それとも時期が来たら強制的に脱皮しなければならない殻を使うのです。それに比べてうちの猫は説明しようとすらしません。本質的にただの猫であって堂々としています。そして私には猫たちの行動パターンはある程度わかるにしても、その意味までは何年いてもわかりません。今は猫は家の中にいますが、以前外出させていた時はどこで何をしているのかかなりの部分で把握できませんでした。家でご飯を食べないのに体重が減らなかった事もあっておかしいなと考えていた時期もあり、なぜか顔を真っ黒にしていた時期があり、道を歩いていて思いもよらぬ場所から出て来るのも常でした。本人(猫)にしかわからないのです。
猫たちに比べると人間はとても律儀に感じられる動物と言って間違いありません。赤の他人にさえその立場をありありとわかるように説明してくれるからです。そんな事、必要ですか?
答えはもちろん「不用」です。この事は、あなたや私が他人に対して律儀過ぎなくて良いというだけにとどまりません。もっと先の事を考えなくてはなリません。というのは、あなたが誰かに何かを説明できるできないに関わらず、「説明できるように考えて行動をしてしまっている」としたら、もっと重大な問題を引き起こしているのです。つまり、何らかの「他人に説明できる理由」を自分の行動原理にしているとしたらどうでしょう? もしそうなら、人生を他人に説明する為に生きている事になってしまいます。人生は仕事ではありません。仕事であれば他人にわかる企画書が書かれる必要がありますが、自分だけの人生にそんなものは要りません。勝手にやれば良いのですから。他人に理解できようとできまいとそれは他人に任せておけば良いのです。
理由など無くて構わないのです。