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(短編小説)ヨーグルト、ベーグル、メープルはため息を逃がさない

「殺し屋がここへやってくる」

妻が子供の世話をやめた。
私は自分の子供の名前をまだ思い出せない。
確か、マイケルだか、ヨーグルトだか、ベーグルだか、メープルか、それ以外の何かだったはずだが所詮役割をもたない由来からとった名前だった気がする。

おそらく4歳を迎えたであろう息子に今改めて名前を付けなおすとするなら何にするだろう。誰に似たのか間の抜けた表情で、柔らかい朝の陽光を一身に浴びながら、私の妻の、母という手と愛情に満ちた張りぼてを享受している息子の名前は『1973』年にしよう。ご不満なら『1973年の夏』でもいい。
さらにそれも不満だとしたら、『1973年の夏、イタリアのバカンス、サツディーニャ島』でもいい。

妻はドアをノックして入ってきたルームサービスに年代物のウイスキーを頼み、頼まれたルームサービスはまるで、動物園で鮫はどこにいるのかと聞かれた梟みたいに首を傾げながら、遅れて了承した。
私はそのウイスキーを確かに覚えていたし、妻も覚えているようだった。
彼女と結婚しなくてはいけないと周りの親族に囲まれたときに、私と妻の間で、ずっと冷や汗をかいていたウイスキー。

味は昼下がりの人気のない路地裏のカビみたいで、もう少し人通りが多ければ、きっと誰もが唸ったであろう、哀れで芳醇で痛痒をもたらすウィスキー。

「殺し屋ですって?」

私よりもずっと、殺し屋という言葉を言い慣れていそうな口調だった。

「そうだ、だから君たちは今すぐ、ビーチに行くといい、浮き輪の準備は浜辺でも間に合うさ、そうだろう?」

息子の名前を呼ぼうとしたが、やはり私には思い出せなかった。
壁に掛けられたアンティークな時計の秒針は10時27分を指し示していることが読めるのに、どうしても目の前にいるちんちくりんの男の子の名前がわからず、その反応を確かめるために、私は彼の頭を張ってみようかと思ったが、横で雑巾を握りしめた家政婦のように怯えた妻を見てやめた。

「どうして、健全な銀行員たった一人に殺し屋を送るんですか?マフィアとかかわりのある部署から異動したんじゃありませんでしたの?」

ずっと読まれていない本のようにストーリーが曖昧だったが、私は彼女に自分を銀行員として伝えていたことを知って驚いた。
確か花屋かレンガ職人と伝えていたような気がするのだが、彼女は私が毎朝銀行に行っていると思っていたのだ。

ルームサービスがてんで違う年代のウイスキーを持ってきたが、彼女は何も関心がないように受け取ると数ドルのチップを渡してルームサービスを下がらせた。
扉が閉まるまでルームサービスは壊れたおもちゃみたいに何かを話していた。

「冷えたグラスでもお持ちしやしょうか?」
「旦那のネクタイはあれだ、今フランスで流行っているロマニのブランドでやんすね?」

ウイスキーが一本、堀り傷の多いサイドテーブルに置かれた。
妻は今朝水を飲んだグラスを軽くゆすいで、ウイスキーを開け、注ぎ、2口分だけ飲んだ。

腕を組んだ彼女の印象は、サイドテーブルをより際立たせるために彫られた置物だった。
僅かに腰を横に突き出して、何か言いたげなまつ毛が半分ばかり下がって、私を離さない。まるでそこにしかほしいものがないことを知っている子供のあきらめのような眼差しだ。

私はウイスキーを瓶ごと掴み、そのまま飲めるだけ飲んだ。
そういえば、息子も喉が渇いただろうと、瓶を回すと、妻が暴力とも思える速度で息子の手から瓶を奪って、窓の外からそれを放り投げた。
下の階は確ホテルに備えられたプールがあったはずだ。
割れるまでの時間は10階から物が落ちるまでの時間だった。
瓶が割れる音と人の悲鳴が聞こえてきたので、私は窓から下を覗き込むと、プールサイドを歩いていた子供の頭に落ちたようで、傍らにいる母親が叫びながらその子供の名前を叫んでいたが、やはりその子供の名前すら私には聞き取れなかった。

何人かの人間が見上げて、瓶が振ってきた窓を特定しようと怒声を上げていた。まるで水を駆けられた蟻の困惑のようだと思い、少しだけほほえましい気持ちになれたので、彼らに手を振ってみた所、彼らも何やら私に叫び出した。

「きちがい酔っ払い」
「子供を殺したんだぞ」

それはアスファルトから投げられて、私のところを通り越して、また元のアスファルトに戻っていく。
私はそんなことを想像して、全ての汚い言葉が結局のところ、万有引力に則って彼ら自身の体を通り過ぎていくのを可笑しく思った。

「そうか、殺し屋は君だったのか」

私のジョークに妻が冬の日の息みたいに青くなって震えている。

「ここは私がなんとかしよう、君たちは早くビーチに行きなさい、どうせあと数分で殺し屋がくるのだから」

息子は妻に何があったのか尋ねたが、妻は何も話さずに、息子の手を取り、ドアノブに手をかけた。

私は殺し屋について何か言っておこうと思い立って、昨日から考えていたことを話すことにした。

「最近、よくマフィアが運営するカジノの更に奥のビップな所で、イタリア政府も眉をひそめるほどの違法賭博に身を投げ打ってね、私はカードの絵すら読めないんだ、だから目の前で何が配られてどんな法則があるのかもさっぱりでね、ほら私が生まれたのは酷い時代で姉も弟も私より先に死んでしまって、家を養うためには、蝋の職人にならざるを得なかった、職人なら文字も絵も、トランプも知らなくていいんだ、仕事おわりのビールが1杯12オンスで78セントであることがわかればね、当然、私は大金を失った、そして金を払わずに逃げてきた、連絡もせず、今はバカンス、彼らはもう巣を突かれた蜂のように私を追ってきているんだよ」

話を終えると部屋には私以外の誰もいなかった。
ベッドには今日息子が初めて使うはずだった浮き輪が置いてある。
プールサイドには人だかりができていて、先ほど叫んでいた男二人がまだ、私の部屋を見ていた。

「あ、出て来たぞ、あそこだ」
「おい、降りてこい」

暑い日になりそうだと思った。今まで見た中で最も太陽が近く、最も熱を孕んでいるように見えて、視界が僅かに霞んだ。
私はベッドに置いてあった空気の入っていない浮き輪と妻が飲んだ空のグラスを手に持って窓から半身を出した。

「まだ、何か投げてくるぞ」と叫んでいる男めがけて浮き輪を投げて、救助隊員の方にはグラスを投げて、そのあとで、私はまた手を振った。

ドアをノックされたので開けてみると先ほどのルームサービスだった。
手には10ドルが握られている。

「あのおいら、また奥様とすれ違って頼み事されたのですが、さすがに少しは返させてくだせぇ、こんなにもらえないですぜ」

「何を頼まれたんだね?今度はきちんと言われた通りのものを渡せたのかね」

「いけねぇ、おいら昔から物覚えが悪くて、これですで、旦那」

ルームサービスは燕尾服の上着をずらすと腰に刺さっている拳銃を抜いた。

「ほう、私を撃つのかい」

「違います、違いますぜ旦那、これで身を守ってくれって奥様に伝えてほしいって言われたんですぜ、あれ、これは身を守れるものだ、でしたっけ、それとも、これが身を守るでしたっけ、やっぱりおいらは頭が悪くてしょうがねぇ、とにかく旦那、マフィアに追われていようと諦めちゃだめですぜ、あとおいらに出来ることはありませんかねぇ」

「500ドル渡すから、妻がここに帰ってきたときにはマフィアなんて嘘さ、と伝えてくれるかい?」

「はい?旦那、マフィアは?」

「嘘だ」

「さようですか、えと奥様になんて伝えるんでしたっけ、えと、踵を揃えろ、でしたっけ?」

「惜しいな、マフィアは嘘だと伝えてほしいな」

「わかりました、おいら絶対に一語一句違えず伝えさせていただきやす、おいらにこんなに親切にしてくれる人なんて見たことがねぇ」

「忘れているだけさ」

「本当にそうでしょうか、ではおいらはそろそろ、失礼します、あ、伝言はなんでしたっけ?えとえと、最初の1文字目がわかれば思い出せるんですけど」

「ヨ、さ」

「ヨでしたっけ?」

「そう、ヨーグルト、ベーグル、メープルって伝えてくれと言ったんだ」

「あぁ、そうでしたそうでした、おいら昔から食べ物の名前だけは忘れないです、ちゃんと奥様に伝えますからね、それでは」

ルームサービスはぶつぶつ何かを言いながら去っていった。
私は彼が置いて行った、拳銃を持って、窓から半身を出す。

「銃だ、銃を持っているぞ」

今度は足の裏に針が刺さった人間みたいに、全員があちこちに走りまわった。
私が先ほど投げた浮き輪で滑って転ぶもの、割れたグラスや瓶の破片を踏んで蹲る者。
私は手を振ってみた。
プールサイドに座っているまだ7歳にも満たないであろう女の子だけが、私に手を振り返してくれた。
あの娘の名前はなんだろう。

ヨーグルトだろうか、ベーグルだろうか、メープルだろうか。
気づかぬうちに私は長いため息をはいていた。
拳銃は私のこめかみにぴったりと張り付いている。
あとはこのまま、ワインのコルクを開けるみたいに、一つの楽しみの前のようにゆっくりと味わいながら。









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