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気づきって何? そもそも論

瞑想をはじめたばかりの頃、瞑想のなかで使われる言葉の理解に引っかかる時があった。

わたしの場合は「気づき」。

「気づき」という言葉の意味はよく知っているけれど、改めて説明しようと思ったら、これがなかなか難しい。

例えば、

・商店街を歩いていたら、知り合いが向かいの通りを歩いていたのに「気づいた」。
・手を振ったら、相手も「気づいて」くれた。

と、普通はこんな感じで、気づいた対象物を認識した時点で「気づいた」と言う。


でもどうやら瞑想で使っている「気づき」は、こんな短絡的な感じではなく、気づく対象物が言葉として明確になる直前の、ほんの一瞬の時を指すらしい。

例えば、

① 夜道を歩いていたら、電信柱の下に何か黒いものがあるのに「気づいた」

② 近づいてみたら、それは誰かが置いて行ったゴミ袋だということに「気づいた」

① の気づきは瞑想中で使われる「気づき」に近く、

② の気づきは、黒いものがゴミ袋だと気づいた時点で「思考」になる。


つまり、瞑想においての「気づき」とは、ものが概念や思考になる前の一瞬先のことを言い、その気づいたものが言葉(概念)によって表現されてしまうと「思考」になる。

もう一個例をあげます。下の写真を見てみましょう。

昼間の月


右上に小さく月が見えます。
「あ、月だ」と思ったとき

「あ」→  気づき。何かに気づいた瞬間。

「月だ」→ 思考。月という言葉は概念。

瞑想中に、頭の中に浮上してくるありとあらゆる雑念・思考にいち早く「気づき」、それを観察し、わいてきた思考を広げず、さりとてジャッジせず、そのままにしておきながら、また呼吸に意識を向けると、今さっきわいてきた思考は自然となくなっていきます。

そしてまた新たに雑念がわいてきたら、今一度呼吸に意識を戻し・・・と、このように、瞑想中は同じことを何度も何度も繰り返し繰り返します。


そして延々と続くこの行為によって何が生まれるのか?
こうやって「気づく」ことで何が得られるのか?

人によって、得られるものはさまざまだと思います。また瞑想の指南書なるものをお持ちの方は、いろいろなことが書いてありますので参考にされてもいいでしょう。

わたし個人の体験としては、

ひとつの思考にとらわれなくなる

思考は常に生まれては消えていくものという認識が生まれる。
そして思考そのものもどんどん変化している。俗な言い方をすれば「考えがころころ変わる」。
結果、たったひとつの思考だけにとらわれなくなる。


過去は過ぎ去った曖昧な記憶、未来はまだ不安定なもの

過去の出来事を思い出すとき、わたしたちは脳内にある記憶がたくさん詰まった器の中からその出来事を引っ張り出してきます。でも果たしてその出来事は確かなものだったのだろうか?・・・なんて考えたことはありませんか?

同じ出来事でも、人によって解釈や覚えていることが違うように、過ぎ去ったことは現実味がなくなり不確かなものになり、時が経てば経つほどに曖昧になっていく。さらにその記憶に妄想が加わりありもしないことになっていく可能性もあったりして、そんなことに執着するのは無意味だと気づきます。

未来も同様。これから起こるだろうことは誰にもわからない。原因と結果の法則はあっても、その原因自体が一刻一刻変わっているから、結果がどうなるかわからないのです。明日はこうなるだろうと、ある程度の予測はできても、必ずその通りにはならないのが事実。

未来のことを考えすぎない、決めつけない、流れで生きるのがベスト。


今とつながることができる

「今」自体も常に変わっていくものではあるけれど、その一瞬一瞬を「感じ」「気づいて」いくことで、今、この一瞬だけが、唯一確かなものだということを認識できるようになる。

呼吸は、木や虫などの自然の生命体とつながります。木や動物、虫なども自分たち同様、呼吸しているからです。虫や動物たちといっしょに呼吸しているとおもうと楽しくなってきます。

自然の生命体とつながれば大地や海とつながります。大地は地球の自転とともに動いています。海も、波というリズムを刻んでいます。呼吸といっしょです。地球が動き、時が動き、目の前の景色が動き、ひとときも休むことなく変わっていく。


禅やマインドフルネスでよく使われる「今を生きる」とは、瞑想している人や達観した人だけが使える特別な言葉ではないのです。
すべての生命が、取りこぼしなく「今」を生きています。

ただ、それに気づいているかいないかの、それだけの違いです。

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