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帰ってきたら塩豆大福が置いてあった話。

さて、今日は何を書こうか。

いま、書き始めたところの時刻は22時15分ごろ、うっかりお子たちの寝かしつけと一緒に寝てしまうところだった。

ところで、子のことをお子と言ったり、複数形の子のことを子供と呼ばず、お子達という流れはいつ頃から始まったのだろう。

わたしがそういう教養がなかったからかもしれないし、その世界線を知らなかっただけなのかもしれない。

いや、どうでもいいのだけれど、なんとなく、ぶっている感が出ているのも否めないのである。

わたしは多様性を尊重しています。と大っぴらに発言するような、わたしはきちんと子を育てていますよと言った、ぶっている感が否めないのである。

とはいえ、わたしもその、お子達と言っている流派の1人である。

取るに足りない話をするようになったあたり、わたしの中年への道もすでに始まっているのかもしれない。

そうだ、こういうことを書きたかったんじゃない。今日一日の締めくくりにいいなと感じたことに目を向けたい。

取るに足りないと思っていたことを取るに足りるような話にしたいのだ。

退屈なことを話す人の話など、誰が聞き耳を立てようか。いや、そんなことはない。誰でも話の面白い人の話を聞きたいものである。反語を使ってみたくもなるのである。

ところが、無理におもしろそうに話してみても、ぎこちなさが残ったりもするのだから、結局のところ、話したいように話して、聞きたいように聞けばいいのだとおもう。

きのう、夕飯の時に妻と話していたことを隠れてきいていたのか、もしくは盗聴器でも仕掛けているのか、あるいは、壁に耳を立てて聴いていたのか。はたまた、私たち2人の声が大きかったのか。と想うことがあった。

それが、塩豆大福について。である。

昨晩、塩豆大福が食べたいと妻と2人で話したことを確かに記憶している。

それが、仕事から帰宅すると、同居する母がいる一階のキッチンにその渇望した塩豆大福が置いているではないか。

そう、母が塩豆大福を私たちのために買ってきていたのである。もはや、塩豆大福という四文字熟語を書きたいだけのようでもある。

塩豆大福という文字をみただけで穏やかになるわたしがいる。

これが二世帯住宅の、父母と暮らすことの醍醐味と言えるかもしれない。

わたしの母はたまにそういうことをやる。こちらが話してもいないのに、私たちの好みの食べ物をチョイスしている。

どこかこう、念力のようなものが働いているのか、とにかく、塩豆大福がとてもおいしかったというだけの話なのだけど、うん、また塩豆大福が食べたくなってきた。

二世帯同居というものも、案外いいものですよ。

ちなみに今、娘を出産した姉が帰ってきているので、三世帯同居という状況なのである。幼い子が3人いる生活というものも、楽しいものですよ。

さて、23時前に目標にしている1日1,000文字を達成できたので、おやすみします。ご飯を食べた後って、どうしてこんなに眠たくなるのでしょう。ずっと起きてたいのになぁ。

(サムネイルの写真は息子がまだ今よりも幼かった頃の写真にしました。こうしてみると、顔立ちも徐々に変わってきているのを感じます。)

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松田佳之
山のため、子のため、写真のために使わせていただきます。いつかお会いできれば嬉しいです。