『マイブロークン・マリコ』における喪失とジェンダー
先学期の課題で書いた『マイブロークン・マリコ』についての感想というか分析というか何かを、少し褒められたので調子に乗ってnoteに移植することにした。
課題の内容は、「喪失と表現」をテーマに作品を選んで鑑賞し分析するというもの。修正は気が向いたらするので、とりあえず提出したままの文章で置いておく。
「マイ・ブロークン・マリコ」のあらすじ
はじめに
私は喪失と表現を扱った作品として「マイ・ブロークン・マリコ」を選んだ。この作品は、平庫ワカさんによる原作漫画とタナダユキさんが監督を務めた映画版があるが、今回はそのどちらもを分析の対象とする。ストーリーの順序に沿って分析をするわけではないこと、作品の大きなネタバレを含むことを注意されたい。
この作品は大まかに二つのテーマを持った物語として読むことができる。一つは、シイノによる喪の作業の物語として。そしてもう一つは女性同士の連帯と関係性の物語としてである。このレポートの題意に沿って主に前者を扱うが、社会構造の中でのマリコとシイノという2人の関係性についても部分的に扱いたいと思う。
リビドーの宛先
互いに向けられたこれらの言葉からも分かるように、シイノとマリコは、そのリビドーのほとんど全てを互いに向け合っていたと言える。その意味で、シイノの喪の作業は必然的に大きな心的エネルギーを要し、鮮烈な苦痛を伴うものであった。この作品で切り取られた数日はそのほんの始まりでしかない。しかし、その中でシイノは他者と出会い、マリコから贈られた言葉を受け取り、生きてゆくための小さな光を見つける。
現実の吟味
喪の作業におけるプロセスのひとつとして「現実の吟味」がある。シイノはマリコの死を知った当初、「…いや… だってあたし達先週遊んだばっか…」とマリコの突然の死に困惑しながら、LINEを送ったり、電話をかけたりする。それは、「イカガワマリコ」という存在の死を、言葉面としては受け取ったものの、現実味のある実感としては受容できておらず、いつものように「チャットかってくらい速い」返信がくるのではないかと、心のどこかで期待しているからである。
その後も、海へ行くことは決めたもののどこの海へ行けば良いのか悩むシイノは「マリコはどこ行きたい?」とLINEを送り、来ることのない返事にマリコの死という現実を改めて経験する。言葉を送ることはできてもマリコに届くことはない。この事実は、マリコが生きている間に言葉を届けられなかったという後悔の意識をシイノに与える。
しがらみを解く
喪の作業の中で、シイノは生前のマリコに「何もしてやれなかった」ことを嘆き、今からでもできることはないかと考える。このレポートではこれを「喪失対象とのしがらみを解く」作業として捉える。シイノとマリコの間にあるしがらみとは何か?それは、どこかで線引きをしてマリコを男たちから自由にできなかったこと、「ううんマリコ あんた何も悪かない」という言葉を届けられなかったことだろう。
生前、父親や恋人に身体的・心理的・性的虐待を受けてきたマリコは、自分自身の身体の所有権を男性に奪われ、自分自身の身体や行動に対しての決定権を完全な状態で持ち得ない存在だったと捉えられる。だからこそ、マリコの死去を受けてシイノは「今からできること」として遺骨の奪還を決意した。マリコとシイノにとっての遺骨の奪還とは、男性から自分の身体の所有権を奪還することに他ならない。 身体の所有権を取り戻すことによって、2人は初めて決定権を完全に取り戻し、行き先に悩み、まりがおか岬へと旅をすることができた。
他者の存在
ストレンジャーとして訪れたまりがおか岬で、マリコはさまざまな人に出会う。バスの運転手、バスで乗り合わせた女子高生、ひったくり犯、居酒屋のおじさん達、そしてマキオ。この旅を通じて、関心を向ける対象がマリコだけであったシイノの世界は変容していく。
これは映画版にのみあるシーンだが、まりがおか岬へと向かうバスの中で、シイノはひとりの女子高生と出会う。言葉を交わすことは無くとも、見知らぬ土地で共にバスに揺られる時間を過ごしたシイノは、バスから降りた女子高生に向かって手を振る。その翌日、シイノはマリコの遺骨を投げ打って、痴漢に追われるこの女子高生を助けることになる。女子高生の発した助けを求める声は、マリコから届くことのなかった/聴くことのできなかった声なき声に重なり、シイノは女子高生を助けることによって、自分の中の後悔と少しずつ向き合っていくことになる。
体験を分かち合うこと
男によって傷つけられ、自分自身の体や心を自分自身のものと感じられないような状況に置かれた体験。シイノとマリコの間にはその経験が共有されていたのではないかと考える。作品内では、シイノの持つ背景についてあまり多く語られないが、中学時代の回想において喫煙や両親が離婚した描写などがあり、決して良い環境ではなかったと推測できる。マリコの実家に乗り込み遺骨を父親から奪った際に、「テメエに弔われたって白々しくて反吐が出る!」と叫ぶシーンでシイノとマリコが同一化したような表現がなされているのは、シイノの言葉や感情がマリコと一致したことを示しているのではないか。そのような背景を前提に置くと、まりがおか岬で痴漢に追われる女子高生が助けを求めたシーンで、シイノが何もかもを投げ打っても、女子高生を助けた行動が理解できるだろう。女性達を結びつける連帯の根源には、身体の所有権・決定権の剥奪に対する怒りが横たわっている。
「ねこ」と「敵対しない男」
マリコのセリフで象徴的に扱われるものの一つが「ねこ」である。手紙や回想の中で、家を出てシイノと共に暮らしたいというマリコの話には必ず、「ねこも飼いたい」という言葉が付け加えられる。一般的に「ねこ」が象徴するのは、自由や変化、気まぐれ、犬と対比される女性性である。おそらくこの作品では、男性からの独立や自律を象徴する存在としてねこが描かれている。しかし、実際に登場するのはたった一度、ひったくり犯を追いかけていったシイノを、マリコの遺骨と共に待つマキオの隣で撫でられているねこだけである。このシーンののち、シイノは”私たち”の自律性を侵害しない存在としてマキオを認めることになる。そのことが、マキオが独立や自律性を象徴するねこと共存可能な存在として描かれることによって示されているのである。
シイノとマリコ、おばさんや女子高生などの女同士の連帯が主に描かれるこの作品においては、マキオという男の存在はある意味異質である。マリコの父や上司、ひったくり犯に象徴される「敵対する男」達の持つ理不尽さや暴力性に対し、マキオはシイノやマリコの自律を尊重する姿勢を貫く「敵対しない男」として物語に登場する。その背景には、「半年前自分も飛びました」という言葉から分かるよう、死に接近した体験がある。性別ではなく感情の次元で結びつくこと、その可能性がマキオとの出会いによって示されている。
記号化への抵抗
私がこの作品の中で最も印象的だったのは、「こうしてる間にもどんどんあのコの記憶が薄れてくんだよ きれいなあのコしか思い出さなくなる…… あたしッ 何度もあのコのこと めんどくせー女って…!思ったのにさあ……っ」というシイノのセリフである。遺骨と旅をするなかで、シイノは手紙やふとした一致からマリコを追憶する。そこにはシイノの中で再創造された生き生きとしたマリコが存在し、同時に永遠の不在を突きつける。そのような時間は、シイノにとってマリコが唯一無二の存在であったこと、「親友」という記号に還元されることのない関係性であったことを示すものでもある。だからこそ、シイノは怒りや恨みといった、決して綺麗とは言えない感情や思い出が2人の間にあったことを忘れまいとするのだろう。それは、マリコという存在の全てを受け止め、承認し、愛することである。「お願いシイちゃん ”お前が悪かったんだ”って言って…!」というマリコの声なき声に対する応答は、すでにシイノの中に存在していたのだと言える。
贈られる言葉:手紙
「ねぇマリコ 本当に手紙の一つもあたしに残さず死んだの?」
ところで、回想の中で描かれるマリコと死んだマリコとの間には、終盤まで大きな違和感が残される。それは、手紙を書くことが好きで、大人になってもLINEや電話だけでなく、些細な内容を手紙に書いて寄越していたマリコが、死に際してシイノへ何の言葉も残さなかったことへの違和感である。結論としては、手紙はシイノの元へまだ届いていないだけで存在していたのだが、そのすれ違いがシイノの心に深い影を落とし、後悔の念を増幅させるひとつのトリガーであったことは間違いない。
作品のラストシーン、マリコの最後の手紙を読んだシイノはただ一言「…うん」と呟いて肯首する。内容は読者には明かされない。作者の平庫ワカさん自身もインタビューで「何が書かれているのか、はっきりとはわからなかった」と述べている。シイノへ残された言葉があること、そしてそれが希望を感じさせるような内容であったことは、シイノとマリコの2人の関係性において互いが互いの希望であったことを、読者に想像の余白を与えたまま示している。
おわりに:一般化される死と唯一の死
作品は、中華料理屋の店内に流れるニュース番組で読み上げられた「イカガワマリコ」の名前に、シイノがラーメンを啜る手を止める、というシーンから始まる。このシーンに対応するように、映画の最後には「私以外の誰にとっても、あんたが死んだことなんか関係ないわけで」というモノローグの後、冒頭と同じ中華料理屋で、見知らぬ人の死亡のニュースを聞き流すシイノが描かれる。シイノにとってマリコの死は唯一の死であったが、上司をはじめとする他者にとってはそうでなかったように、シイノにとって見知らぬ他者の死は一般化される死であるが、誰かにとっては唯一の死である。
この作品を貫くのは、死去という喪失の体験に対する当事者性と非当事者性の鮮やかな対比である。ふとした偶然によって、死者と生者との間に第三者が立ち入る瞬間。作者はそこに光を見出そうとしたのではないか。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?