『ナミビアの砂漠』 無軌道も無理な世界で
カンヌ国際映画祭への出品でも話題を呼んだ『ナミビアの砂漠』。山中瑶子監督、河合優実主演。それだけで「観なくては」と思う人も多いはず。はたしてその実態は、物語を求めると弾かれる、共感を探すと唾を吐かれる、容赦なく「いま」を突きつけられる怪力作。すべての大人たちが本作を観て大いに戸惑ってしまえばいい。そしてこの作品が「いま」である今に観られる幸せと冷たさを憶えておくがいい。
映画『ナミビアの砂漠』は2024年9月6日(金)から公開です。
『ナミビアの砂漠』に関する前情報
映画『ナミビアの砂漠』について自分が語れることは少ない、ということをまず断っておきたい。あらすじから入ることも難しくて、この作品がどういう位置づけなのかについて記すところからしか始めようがない。
この作品は今年(2024年)のカンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したことでも話題となった。山中瑶子監督は2017年、19歳のときに自主制作映画『あみこ』で高く評価された若き俊英で、本作が長編デビュー作。主演の河合優実は映画、ドラマへの出演が続き、声優としても頭角を現しまくっていて、プレス資料に「2人のケミストリーが日本映画に新しい風を吹き込む!」と断言されるほど、このタイミングでのこの組み合わせの作品への期待は高い。
鑑賞しながら感じたのは、なんて容赦のない作品だろうか、という、大ダメージを受けたような印象だった。
物語にはできなくて、映画にならできること。
主人公であるカナには主体性が見えない。いつだって誰かからの刺激に対して反応するように生きている。物語というのは主人公がなにかを求めるものだが、カナはなにかを求めているようには見えない。友人が「帰りたくない」と言えばホストクラブにつきあってやる。それに飽きたら、このごろ仲良くなった男を呼び出して遊び、彼が帰ってしまうとカナは恋人と同棲している部屋に帰る。酔って帰って嘔吐する彼女を恋人は誠実に介抱し、カナはそのまま眠ってしまう。
前半、ドラマチックなできごとはほとんど起きない。かといって、リアルな若者を描いた(ドキュメンタリー的)作品、とも言い切れない。
カナの言動には映画の人物らしい力があり、彼女がなにを欲しているかよりも、なにを拒みたがっているかについて考えさせられる。拒絶の姿勢にこそ求心力があって、本来ならそれは相反する方向に働くふたつの力なのに、この作品では相反する力が見事に腕を組んで、観る者を引きずり込んでいく。
共感をベースにして観ることはできない。それは僕がこの世代ではないから、かもしれない。若い人たちはものすごく共感をおぼえる作品かもしれない(あとで書くけれど、若い世代の感想は共感したという声が多い)。だが、しかし、その共感は物語の理解を助けるためのものにはならないだろう。
映画は後半、次第に現実味を薄れさせていく。「ひょっとしてこの映画もやはり物語であり、結末を目指して進みはじめたのか?」と思うものの、そうはならない。カナは余計に軌道をはずれていき、恋人との関係も幸せとは遠いものへと転がり落ちていく。カナがそうなってしまったことの理由めいたものは、病名をはじめ、作中でもいくつか提示されるが、それが答えにはならない。
あなたがそのような振る舞いをしてしまうのは、これが原因なんです。そうやって問題が特定されれば、解決するなり、共生するなり、対処の筋道だってつくれそうなのだけれど、そして物語はそうやって形成されるものだけれど、この作品では本当にそういう方向には進まない。
そのあたりの脈絡の作れなさもまた、リアルさを補強している。物語にはできないことだけれど、映画にならできること。理屈で説明を整えるのではなく、光と音でわからせる。だから、容赦がない。「はあ、おもしろかった」という落着を与えるつもりがさらさらない作品なのだ。
雑音が豊かになるほど、自分が乏しくなる。
印象的だったところはいくつもあって、そのひとつが、周囲の雑音。
冒頭、カフェで友人の話に相槌をうちながらも、カナの耳は近くの席に座る男性たちの会話にも向いている。男性たちの姿が映っていないときにも、彼らの会話が割にはっきりと、内容がわかる程度に聞こえている。同じように、街を歩くときには雑踏からの会話が、自宅で喧嘩をするあいだにも隣室からの音声が、ここに他人がいますよ、と主張するように聞こえてくる。もちろんこれは意図的な調整で、冒頭のシーンでそのことはわかるから、のちに続く場面で同じことが起きても違和感はおぼえない。そして、はたと気づく。この違和感のなさは、スマホをいじりながら人と会話する、スマホを見ながらタブレットでドラマを観る、そうした日常生活に自分たちが馴れきったせいではないか、と。
僕もそうだが、スマホを手にしていることで、他人への関心は薄れている。他人の存在を忘れているわけではない。相手が目の前にいても、その人だけに集中せずにいることが当たり前になっている。なんなら一対一で向き合って会話をしながら、それぞれにスマホをさわっていても、異常でもなんでもない。わかってる。その危うさというか薄情さというか、気をつけなくてはと自戒することもある。でも、やってしまう。
目の前の誰かに対する関心の薄さは、実のところ自分の生活への関心の薄さであって、そうであるならば、この作品の雑音の在り方は現代人の希薄な生活そのものといえる。カナの拒絶に求心力が宿るのと同じで、雑音が豊かであるほど自分が乏しくなっていく。
やだな。ひやりとする。新しい語り口。いま観ておくことに多大な価値のある作品だと思う。すごく戸惑うけど。
戸惑うために観る映画
そう。戸惑う、というのが映画の感想として最も強い。
無軌道、という言葉がある。若者が社会や大人に対して反抗心を剥き出しにする物語で使われていたような言葉でもある。10年前なら『ナミビアの砂漠』も若者の無軌道さをリアルに捉えた傑作、と評されていたかもしれない。でもなあ、もうそういう表現は使えないのだ。今作で思い知った。「無軌道」とは「軌道」があって初めて意味をなす言葉で、この作品が示すのは、もはや軌道がないんだよ、ということ。
僕が試写を観たのと同じタイミングでジャパンプレミアなるものが開催されていたので、他の人たちの感想を覗いたところ、若い世代の人々は絶賛していた。多くが共感ベースでの賞賛で、それらの言葉を読むごとに、僕などはハナからお呼びでないのだという印象を強めた。
あるいは、だからこそ、上の世代の人間が観て、存分に戸惑うのがいいのかもしれない。これがリアルで、生々しくて、エグくて、刺さる作品なのです。それは若者だからということではなくて、どの世代にも他人事じゃなくて、自分たちも生きている現代の話なのだから。共感ベースで刺さらなくても、若い世代が捉えている現実がどのような手触りなのかを知って、大人たちがおろおろしなくちゃいけない。
戸惑うために観る映画は、あっていい。あるべきだ、とまでは言わないけど、あったほうがいい。なので『ナミビアの砂漠』、ぜひ。