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レモンパイと西洋絵画の繋がりを考察してみる 〜死の香りを添えて〜
初夏である。
檸檬の季節である。
もとい、レモンパイの季節である。
レモンパイ好きが忙しくなる季節だ。
ひとえにレモンパイと言っても奥が深く、色んなタイプのものがある。
工藤新一が好きなパイ生地バリバリのアメリカン!なやつも良いが、私は各店こだわりのフワフワのメレンゲの下に、キリッと酸っぱいレモンカードが隠されたものが大好きだ。
レモンパイとの出会いを振り返るとはや10年前。
スカした感じで恐縮なのだが、高校生の夏休みの初めてのパリ旅行に遡る。
ガイドブックでタルトシトロンなる檸檬スイーツの存在を知り、無性に食欲を刺激されたのが始まりだ。(シトロンとはフランス語で檸檬のこと)
どうしても食べたいと探し回り、最終日にようやくありつけたタルトシトロンの美味しいこと美味しいこと…。
体調を崩した親をホテルに置いて、子供達だけで街をほっつきまわった刺激的な思い出と結びつく、まさに自由の味だった。
そして、幸いなことに大学時代に住んでいた京都はレモンパイの宝庫だった。
京都の喫茶店にはレギュラーメニューとして通年置いているお店も少なくなく、レモンパイ不足になることは一度もなかった。(イノダコーヒ様々である)
が、就職後東京に出てきて、その状況がいかに恵まれていたのかを知る。
都内では季節限定メニューとして登場することがほとんどで、しかも出現時期も冬だったり初夏だったりとまちまちだ。
食べたければ目ぼしいところのSNSをまめにチェックするしかなく、ふらっと入った喫茶店で偶然レモンパイと遭遇することは激減した。
離れると恋しくなり手に入らないと求めてしまうのが世の常ってことで、レモンパイの季節になると外出の度、保存しているリストから近くにお店がないかとGoogleMapをつい辿ってしまう。
そんな有様を見かねた友人から、「偏愛を語る日記を書いているんだから、レモンパイのこと取り上げてみなよ」という勅令を受け、なぜそんなに好きなのか、を今改めて考えてみた。
確かにいまいち食に関心のない私が、ここまで突き動かさるのは何故だろう。
勿論パリや京都での自由な思い出が味覚に結びついているのもあるだろうが、それ以上にもっと文学的で、詩的なものを私はレモンパイに感じ取っているような気がする。
それは梶井基次郎的な感傷なのだろうか。いや、もっとそっけなく、そして毒々しい何かをレモンパイを通して私は見ている気がする。
しばらくあれこれ思案し、一つの仮説に辿り着いた。
私はレモンパイを通してヴァニタスを、死の匂いを嗅ぎ取っているのではないかと。
ナチュラルに出してしまったが、ヴァニタスという言葉をご存知だろうか。
今は歌舞伎町ほっつき回っているけど一応美学美術史学出身の端くれとして軽く説明させて頂くと、ヴァニタスとはラテン語で「虚栄」を意味し、西洋美術史でよく出てくるテーマである。
これは日用品を描いた静物画というジャンルに多く見られ、たとえば割れやすいシャボン玉であったり、いつかは腐りゆく花等を描くことで、人生の儚さや移ろいやすさを表現している。
モネやらルノアールやらの印象派が大人気な今の日本では想像しづらいが、西洋美術史では歴史画・宗教画以外の絵の価値がイマイチ認められていない時期が長かった。
その中ではまあ当然、日用品を描いた静物画というジャンルはランクも低かった。それならばの打開策として、宗教的な意味を静物画に持たせることで格を高めようとしたのがヴァニタスの始まり、と言われている。
ヴァニタスと似た系統の主題で「メメントモリ(=死を忘れるな)」というものもあるが、一般的にはこちらの言葉の方が有名かもしれない。
髑髏がイカす、こういうやつである。
厳密にはメメントモリとヴァニタスは盛んに描かれた時代や場所も異なるのだが、人生の短さや儚さを思い知らせ、享楽的な生活を戒める姿勢は同じだ。
そして、今は美しくともやがては枯れゆく花々と同じように、ヴァニタスの主題では檸檬も繰り返し描かれた。
なぜ檸檬が人生の儚さを表すかというと、表面の瑞々しい見た目に反し、皮を向いた檸檬の果実は苦く、酸っぱい。人生の辛苦を示唆する寓意だ。
歌でも映画でも底抜けにハッピーなものよりも、どことなく「終わり」が仄めかされている作品に惹かれる私は、例外なくこのジャンルが好きだった。
ダイヤモンドのような永遠普遍の美を理想とする西洋美術の中では珍しく、諸行無常の日本的美意識に通じるジャンルは見ていて清々しく、背筋が伸びる思いがする。
余談だが、かの米津玄師大先生の「Lemon」も、当初の曲名は「メメント」だったということをこのインタビューで知った。静物画に思いを馳せていたかまでは分からないが、御大も檸檬と死の関連性を強く感じていたんだろうなぁ、と勝手に推測する。
かくして檸檬という果実は、罪の果実の林檎にも負けないストーリー性を持っている。
では、レモンパイはどうであろう。
私はひそかに、当時の静物画の中で檸檬が担っていた役割、つまり死の戒めを現代に引き継いだのがレモンパイなのではないかと考えている。
色とりどりの菓子達が並ぶショーケースは、いわば虚栄に満ちた静物画の額内だ。
そしてその片隅に佇む、どう見たって可愛らしいレモンパイを一口かじると、威嚇するような酸っぱさが私達を襲う。
そう、甘いヴィジュアルに騙されることなかれ、優美なメレンゲの下に隠されたレモン層はびっくりするほど酸っぱいのである。
そのギャップを味わう時、私達はヴァニタスの教えを思い知らされる。
目を覚ませ、この酸っぱさこそが人生だ、お前はここで現実逃避をしている場合かと。
可愛い見た目に油断して口にしたが最後、レモンパイは全く甘やかしてくれないのである。
味わう度、こんな謙虚な気持ちにさせてくるケーキが他にあるだろうか。
まさにショーケースのヴァニタス、ケーキ界のヴァニタスだ。
多分私は、レモンパイのこの手に負えなさに恋をしている。
ラテン語繋がりでもう1つ挙げると、finishの語源であるラテン語のfinisは、「終わり」を意味すると共に「目標」を意味するという。
死を意識してこそ目標が生まれるという、なかなか深い意味の言葉だ。
次の休みにはあっち、次の次の休みにはこっちのレモンパイを買ってこようと目標を立てることで、私の初夏は輝き出す。
だってそうでもしないとこの心地よい季節はあっという間に終わり、憂鬱な梅雨がやって来てしまう。
初夏は短い、レモンパイの季節も短い。
かくして、人生は短い。
いつか来る終わりに思いを馳せながら、今日もショーケースにヴァニタスを探しにいくのだ。
もしこれを読んで少しでもレモンパイに魅力を感じた方がいるのであれば、都内のレモンパイガイドはこちらが大変詳しいので、ぜひ参考にしてくださいいな(便利な時代だね)
-一応掲載した絵リスト-
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「マグダラのマリア」
ウィレム・クラース・ヘダ「レーマーグラスと時計のある静物画」