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biwars1111
愛を巡る旅の中で
「渇き」という映画を見た。
ひどく辛く、悲しく、痛みがある映画だった。
愛がわからず、人がわからず、それゆえに愛を渇望する。
この中で僕は、「DVも愛の表現の一つなのではないか」と感じた。まさしくそこには愛があったのだ。むしろ主人公の現実の中でいえば、DVの中にしか愛がなかったとも言えるかもしれない。
そうやって感じられた時に「愛」が怖いと感じるようになった。愛は狂気と陽気の間ある微妙な存在のように感じられたのだ。
愛も「表現する」ということに軸がある限り結局のところコミュニケーションである。他者を理解する心がなければ、コミュニケーションは正の表現から負の表現へと変容する。そのような負の表出こそが、僕はDVではないかと考えている。
コミュニケーションは、相対的にギャップをもっているものなのではないか。主観的な世界で物事を捉えることが多い人(完全に客観的に物事を眺めることは客観の適宜から不可能であると思うが)は、往々にしてそのようになりやすい。それすら受け入れてこそ、コミュニケーションなのではないだろうか。
愛はかくも難しい、それは愛が人間関係そのものであるからである。
愛とDVについて扱った記事を最後に添付してこの記事を締めくくろうと思う。
http://logmi.jp/247930
2018.5.9
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