型式学批判
発掘現場のヴァナキュラー
型式学の潮流は、国内では山内清男によって縄文土器の編年研究に引き継がれ、その影響は良くも悪くも現在まで根強く存在している。実際、各地の発掘に当たっている調査員は、出土した土器を前にしてまず「これは〜式だから〜千年前ぐらいのものだろう」などとよく言う。これを聞いて掘り手たちや学生はさすが先生など言ってほめそやすため、調査員はこれで満足してしまうようだ。
旧旧パラダイムの無自覚者
考古学の大義は、遺物を時代毎に並べることではない。モノと人間の関係を根源的に定義することにこそ考古学の意義がある。しかし、令和時代の未だにこの旧旧パラダイムを無自覚に慣習的に生きている自称考古学者は多い。旧旧パラダイムといったのは、既にこの批判は60年代のプロセス考古学派によってなされてから大学研究室などでは新たな方針に置き換わっており、あるいは、既にポストモダンといった新たな潮流からさらなる学問領域の拡張、新たなパラダイム転換を試みている者もあるからだ。
具体例
型式研究に終始しないにしても、型式編年に大きく立脚し、考古資料だけをいじくり回している研究も旧旧パラダイムの延長線上にある。例えば、同型式の土器の分布域を○○式文化圏と称して物レベルの広がり=文化として定義、あるいは無前提に論じている論文がそれである。
型式論のアイデンティティは何か?
これは一例に過ぎないが、現代の考古学において編年の研究に終始した学問領域である「型式学」なるものがあるとすれば、すぐさま打倒されるべきである。本来、型式論とはモノの変化、時間を経るに従って抽象化するという真理を探究することに考古学のアイデンティティがあったのではないだろうか。物と人間の関係性について根源的な哲学的な問いを設定せずして、周辺の事象を広げるだけ広げて統合に向かわなければ型式論はただの物差し作りであって人類の命題ではない。
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