本山桂川と青柳秀雄
2024年4月10日に皓星社から北見継仁『知られざる佐渡の郷土史家・蒐集家―青柳秀雄の生涯とその業績』が刊行された。
青柳秀雄は1909(明治42)年に新潟県三島郡寺泊町に生まれた郷土史家・蒐集家である。
本書の索引によると本山桂川については、5つ挙げられている。
そのなかで、1924(大正13)年 青柳15歳の箇所に「※のちに青柳と親しくなる本山桂川が「日本土俗研究所」を設立する」とある。
この1924年は桂川が、沖縄から、与那国島、そして台湾への調査旅行から茨城県太田の仮寓へ戻ったのちに「日本土俗研究所」名義で『琉球土俗叢書』などを発行している。
その他、1930(昭和5)年には桂川は『佐渡郷土趣味研究』へ「佐渡関係記事」を投稿していることがわかる。
逆に青柳が桂川の『民俗研究』へ投稿したという形跡は、見当たらなかった(Theopotamos (Kamikawa)提供資料)。
◯本山桂川 佐渡へ
『本山桂川未刊文集』(本山プロダクション 2017)には1973(昭和48)年に桂川が執筆した「佐渡回顧」(p.30-35)が収録されている。
ここで、桂川が佐渡へ渡った年は1947(昭和22)年6月であることがわかる。
新潟県新井町に住む野本夫妻から、ここの一家もやがて東京へ転出することになろうから、その前一度佐渡へ渡って見たい。是非一緒にお出でになるようにとの嬉しいたよりを受取った。
丁度、水戸市会議員に当選して初市会が済んで後、大洗で一夕の宴を催すことになっていたのを断って急遽上野に向かったが、汽車が遅れて予定の時間に乗り込めず、6月16日の一夜をうら寒く、改札口前のホームの土間にごろ寝で待ち明かさねばならなかった(p.30)。
そして桂川は6月23日にやっと佐渡へ渡れることとなった。
佐渡へ。しけ模様なれども船出る(p.32)。
桂川と野本夫妻たちも悉く船酔いとなった。この日に念願の佐渡に桂川は上陸するが船酔いがひどく、宿へ向かったとある。
ここですでに桂川は青柳秀雄に葉書を出しており、港には蓮華峯寺の寺男が迎えに来ていたらしい。しかし、ひどい船酔いのため一行は宿へ向かったのである。
◯青柳秀雄との面会
6月24日には桂川は知友の山本修之助(佐渡民謡の著者)、中山徳太郎に会っている。
そして26日の朝に「蓮華峯寺に青柳秀夫を訪う。氏は同寺の住職であることを初めて知った(p.33)。」とある。その日の夕食は桂川は青柳に饗されたようだ。
青柳氏は未だ年若く、かねて佐渡文献の蒐集家として文通せる人で、ここにこの寺があり、ここにこの住職があろうとは、今までうかつにも知らないで来た。玄関には古書籍と古玩具とが整然と置かれてあり、その趣味を物語りげである(p.34)。
そして桂川は27日に帰航している。
この「佐渡回顧」については、1973(昭和48)年2月に桂川の文章と様々な箇所で詠まれた俳句とで構成された回顧された記録である。
「麦秋の佐渡で食ひ飽く 海の幸(野菜乏し)」
以上、桂川の資料を用いた青柳秀雄に関してでした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?