本山桂川の書簡からみる徳富蘇峰との交流 徳富蘇峰宛の本山桂川書簡は6通あり、徳富蘇峰記念館へ保管されている。本文は、筆者が当館で調査を行った報告である。 本文については、書簡の全文を翻刻掲載したものではない。また、内容は要約し、注釈が可能なものには入れた。徳富蘇峰は蘇峰、本山桂川は桂川としている。 最も古いものは昭和8年に送られたものであり、内容は本山桂川『海島民族誌』の序文に対する礼である。この頃は桂川も千葉県市川町(現市川市)に住んでおり、東京市にあった民友社へ
2024年4月10日に皓星社から北見継仁『知られざる佐渡の郷土史家・蒐集家―青柳秀雄の生涯とその業績』が刊行された。 青柳秀雄は1909(明治42)年に新潟県三島郡寺泊町に生まれた郷土史家・蒐集家である。 本書の索引によると本山桂川については、5つ挙げられている。 そのなかで、1924(大正13)年 青柳15歳の箇所に「※のちに青柳と親しくなる本山桂川が「日本土俗研究所」を設立する」とある。 この1924年は桂川が、沖縄から、与那国島、そして台湾への調査旅行から茨城県太
Theopotamos(kamikawa)氏の「南方熊楠詣を行っていた?謎の男・平澤哲雄」 https://note.com/theopotamos/n/ne28ef7f9c5be 上記の投稿に「神谷文太」なる人物がでている。 この人物は南方熊楠が植物研究所設立の資金集めに上京した際に東京駅に迎えに来ている。 熊楠の「上京日記」(『南方熊楠全集』第10巻 42ページ)によると、神谷は この人は三河生れ、年来東京方面における舎弟商売取引の世話をなし、現に舎弟が深川に建設
主に民俗学者、金石文研究家の本山桂川について投稿します。