ワクワクチンチンが与える「苦痛」はハレなるか
随分とコロナワクチン接種者も増えた。僕個人の話をすれば6月7月にはもはやフルチン。つまりワクチン2回目を摂取したワクワクチンチンから2週間を経た状態になっていた。
モデルナ摂取組なのだ。悲哀のモデルナ摂取組というべきか。しかし実際のところ何も起きちゃいないのだから運が良かったのか。副反応はキツかったが。
それにしても量が多かっただの、異物混入だの、何が効くだの、皮膚がおかしくなるだのと、色んな事態が起きるものだ。
しかし,僕は医療ジャーナリストではない。フードジャーナリストであり、サブカルライターなのだ。なので今更ながらの所感でも書き留めておこう。
人間は紅白分かれれば争うしかないのか
人間に絶望して滅ぼそうとする魔王のような気分になる。「ファイザー」と「モデルナ」の摂取したワクチンの違いでもマウント合戦があったからだ。
正直、自分がどちらかを摂取したなら、それ以降は自分の摂取したワクチンの情報だけに関心を向ければよい。他方の情報など気にしたところで時間の無駄でしかなく、損しかない。得などないのだ。
摂取前ならば見比べる必要もある。だが摂取後はそれは争う材料にしかならない。
実際、どちらが有用であるかなんてものは近々でわかるものではない。なんなら10年後、20年後、30年後に何かあるかも知れず、何も無いかもしれない。
そんなもののマウント戦争に参戦するのは些か滑稽ですらある。
ならば楽しんでしまえばよいのだ
むしろ有用な情報の共有のひとつでもすればいい。そう考えてみると、コロナワクチンの副反応を理解した人々であれば、あの経験をどう耐えるか。その時に心の中では何を思ったか。
ツイッターランドでは「超神水」と喩えて面白がったり、「不死身の杉元になりきって耐える」と推しの精神を借りるものもいた。
こいつは楽しくなってきた。こうでなくっちゃあいけない。
そもそもに日本人の精神には仏教や修験道が根付いているのか「苦を乗り越えれば神通力を手に入れる」とでもいうような修行と捉える思想があるのだ。
キリスト教には詳しくないが、あちらも試練を与えると聞くので似たようなものがあるのかもしれない。(仏教や修験道に詳しいとは言ってない)
痛みをハレとせよ
つまりは祭りだ。体調が悪いわけではないのに発熱や激痛に耐える。その先には見返りすらある。この経験は楽しむに値するのだ。
本来、人工的な痛みとは理不尽なものばかりだ。電気マッサージのような痛みもあるにはあるが、拷問や嫌がらせの類にこそ多いはずだ。その痛みを耐えても何も得るものはない。
無痛だった者、副反応が弱かった者には悪いが、この遊びは経験者のみに許された遊びである。そう、そうなのだ。ここで痛みを得た者だけがマウントをとれる状況を生み出すことすら可能。なんという悪魔的発想なのか。
しかし勝者になるのは痛みを知らぬ者より其れに寄り添った者であるべきだ。さあ,今こそ語ろう。ハレたる痛みを。副反応の苦しみを。
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