帰属意識(概念)≒足下の地面(物質)
青少年教育 授業 身体からの言葉 ロゴス的な言葉
今期の自分の担当の授業が終わった。これまでのような実習や演習でなく、講義の授業だった。しかも、デザイン教育ではなく、キャリア教育だった。
デザインの専門学校なので、普段は、技術を教えるのがメインだ。構想と呼ぶなんやかんや考えをまとめる時間や作品を実際に手を動かして作る時間が、授業の多くの時間を占める。
原理や論理を示し、実践しながら修正していき、完璧性より過程を体に染み込ませることを重視し、未来においてどんな課題が訪れようとも、培った過程を生かして、自由に頭を働かせながら高い技術力を発揮する人間に育てる、ことが専門学校の教育だと思っているし、そういう教育をしている先生たちに囲まれて、私も育ってきた、と思っている。
何にせよ、実習が不可欠だと思っていたのに、講義の授業を担当する。人生の経年を感じた。
授業の内容は、仕事のマネジメントの講義をしていくという内容だった。「キャリア教育」の観点で授業をするのはとても頭を絞る。
自分に無いことをかき集めて、なんとか醸造して、自分の身体からの発声として、真善美の網で濾して、伝えたいことを伝える。
へとへとになった。
学生から社会人になるのは、実はとても高いハードルだと思う。
私がそうだった。依存の状態から、自立への一歩をどう踏み出せばいいのか分からなかった。
実際的な”大人になる”ための通過儀礼が共同体の中に無く、現代という社会性は、個人の経験や選択によって”大人になる”ということになっていると思う。
”大人”とは、共同体が決めた役割だ。生物としての役割なら、成熟した時を大人とすればいい。だが、現代の基準は曖昧だ。共同体からもたらされる体験が共通でもなく、鮮明でもなく、顕在化も潜在化もしていない。また、”大人”という意識が曖昧だということは、共同体への帰属意識が弱くなる気がする。
共同体というのは、その土地で暮らす人々の集まりを主に指すが、同時に土地そのものの力のことだとも思う。だから、人に帰属するだけでもなく、土地に帰属する感覚も薄くなっていると思う。また、土地というのは町や村や市などのある範囲を指すのだけでは無くて、その土地で生まれ育った、自分の身体が居場所として立っていられる場所のことだと思う。どんなに体を鍛えて足腰を丈夫にしても、自分が立っている土地のことを分からなければ、踏ん張りも、駆け出しもできないのでは無いだろうか。
帰属意識(概念)≒足下の地面(物質)
学生から社会人になるときの、フワフワとした感覚、確かに全部はじめての体験になるのだが、手応えのないような、物事を見据えることができないような、後ろ盾がないような、何を頼っていいのか分からない、何を後ろに残して行けばいいのかもわからない感覚、これが、時代を通して、ますます大きくなっている気がする。
共同体の通過儀礼は、もはや無い。無いままだと区切りがないので、やはり、擬似的なものが必要になってくるだろう。人格主義的な包括的な題材を入れて、先人の知恵のようなものでも、心に届くように浴びれば、それぞれが向かう方向の少し先が”明るく感じる”かもしれない、という観点で授業を組み立てることにした。
裏テーマは、各々の自己肯定感を上げること。
肯定感の難しさは、他人からの承認を得ることも近似値になっているので、分け難さがあると思う。
欲求を他者や外側に向けるのではなく、自分の内側の満足へ向ける。また、その”自分”というのが、どの位置にあるのかを知っていること、それを透徹していることが、実は自己肯定の条件になると思う。
ヒエラルキーや抑圧の元で、欲求の出し方を学んでいない者は多いのではないか。他者との軋轢を避けるために、我慢することを学んできたが、欲求は自然に出てくるもので、また満たされないと収まらない。風や波に止まれと言っているようなものだ。他者への欲求の出し方を気にするより、まず、心理的に安全に他者に受け取られる経験があれば、その経験を土台に、どのように受け取られたかを吟味することで、さまざまなパターンでの、欲望の出し方を編み出すことができるのではないか。仮定の仮定の仮定の話だが、近年心当たりが多くて、一度は実践してみたかった。
この授業が何だったかの結果は、数年後、数十年後になるかもしれない。誠意というものが試されるので、授業は怠けられない。が、もっと余裕を持ってやりたいものだ。