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日本人の議論とディベート、ディスカッション

日本人が議論が苦手なことを調べてみました。


日本人の議論とargument、debate、discussion

日本語の議論は、argument の訳語とされていますが、debate、discussion の意味をもつこともあるように思います。

「議論」とは、英語で言うところの「ギロン」と同じなのであろうか。新和英大辞典で「議論」を引いてみると、はじめに、argumentがでてくる。これが、一般的な「議論」の対応訳であるといってよかろう。これに続いて、discussion(討議)、debate(討論)、controversy(論争)、dispute(口論)と言った単語が挙げられている。最後の二つは「ギロン」の一部といっても、争っている状態に主眼があるので、ここでは除外する。

https://www.huffingtonpost.jp/yasushi-ogasawara/3_b_3413241.html

「議論」も、その背後に英語の「argument」や「debate」を想起している可能性が強いのではないか。故に、攻撃的であるという理解を持って、「議論」を負の方向に解釈する傾向があると言える。実際、日本語の「議論」の国語辞典の説明は、「argument」の直訳と言っても問題はなかろう。その一方で、我々は、日常の社会生活において、言語行為を通じて、他者との間で意思疎通をはかり、合意(≒了解)の形成を問題なくおこなっているわけである。しかしながら、第3回の連載で論じたように、「意見の対立がある状態が、自然な状態である」という認識を起点とする「argument」を中心とした一群や「dialogue(対話)」と言った、明確な相手を念頭に置いて互いに自分の意見を主張するあり方とは、日常的な日本の「ギロン」のあり方(≒「話し合い」)は異なると言えそうだ。

https://www.huffingtonpost.jp/yasushi-ogasawara/1_b_3494193.html


アメリカ人やフランス人と日本人の違い

米国で米国人と議論をする際には、どんどん意見を交換します。日本人から見ると、邪悪な雰囲気の中、喧嘩をしているように感じるほどです。しかし、米国では、これが適度な議論の雰囲気であり、最後に多数決を通じてか、またはリーダー(意思決定者)が意思決定をすれば、それで議論は終わりです。[...]反対に、日本では、すべての人が相手を気遣っていますので、相手を気遣わずに自分の意見をぶつけ過ぎると、気配りのできない人間とみなされ、意見が採用されないどころか、人格的にも疑問符をつけられかねません。それぞれが自分の主張を明確にし、常に会議ではっきりとした結論を出して終わるというよりは、一定の方向性の空気を作り、全員一致に持っていく努力をします。

私個人の意見としては、どちらが正しいというよりも、場面に応じて両者のバランスを取ることが大切であると思います。

中原徹『国際的日本人が生まれる教室』P44
https://mochisava.blogspot.com/2013/09/2012.html?m=1

一般の会話の中で論議する目的

でも、こんなめんどくさい質問をしてくるフランス人も、実は特に明確な答えを持っていない場合も多いです。

もちろん、しっかりした考えを持っている人も居ますが、自分がした質問に対して知識がないことも多いし、ちゃんと答えられないことも多く、反対にこちらがしっかりしたことを言うと、反論する言葉が見つからなくなるのか言葉を濁されることもしばしば。
「一定の議論のルール」にのっとって話して行くことで、会話の中で回答を見つけて口に出しているという印象を受けることもあります。

こういった日常での議論は、

相手を打ち負かすことが目的ではありません

議論することにより、お互いの事をよりよく知ることができ、こういう考え方もあるのかと言うように視野を広げたり、フランス人にとっては、コミュニケーションを図るための方法であり、楽しんでいるだけなのです。

コミュニケーションの一つである「対話」や「会話」の中にはいろんな要素があり、その一つが「議論」であり「討論」でもあると言えます。

フランス人の会話は「議論」したり「討論」する割合が日本人より多いと言うだけで、基本的には他愛の無いおしゃべりにすぎません。なので、そこまで日常で行われる議論を恐れることもないのですが。。。。

https://web.archive.org/web/20140121030903/http://www.franceplusplus.com/2014/01/debate/

根本的に、

「日本人の議論・討論の方法」と、「西洋ディベートの方法」が違うようです。

「西洋ディベート」は最初に自分の意見を主張し、そこから反対意見や賛成意見を受け、主張があってる、あってないか(勝ち負け)で結論に達します。
それに対して「日本人の議論・討論の方法」は、相手の話を聞いてそれをとりあえず肯定した後、いろんな人が自分の似たような話をしていって、そこで出てきた共通部分が結論となります。

「日本式の討論・議論」とは大きく違う考え方のロジック議論の「西洋ディベート」混合してしまった結果、

結局「西洋ディベート」とは別物を学ぶことになり、重要性が失われてしまった。

その結果、「教育すること」として定着しなかったと理解したら納得できます。

https://web.archive.org/web/20140121030903/http://www.franceplusplus.com/2014/01/debate/

日本的な組織における会議(古くは、地域共同体である村落の寄り合い)をみるに、特定の相手に向けてメッセージを発し、各自の意見を互いに主張し、それをぶつけ合うのではなく、むしろ、相手を特定することなく、意見の対立は顕在化することなく、会議と言う「場」に、独り言(モノローグ)のように発せられる参加者一人一人の考えや意見(思いや心情に近い)が次々と置かれていくと言えないか。そして、この独白(モノローグ)の連鎖が意見の分布状態を示し(この相違は、「議論」ではないので、対立に発展しない)、その分布状態と言う構図のなかで、各自は自分の位置をはかり、自分の意見や考えを微修正し、何回か会議を行う過程で、参加者各自の意見や考えは、成功した会議の場合には、あるしかるべき点に収斂してくる。これを、「衆議一決」というのではないか。つまり、日本の会議は、決定を前提に行われていない。決定は、プロセスの最終的な結果でしかないのである。

https://www.huffingtonpost.jp/yasushi-ogasawara/1_b_3494193.html

日本人は論理?が苦手

このため以下の特徴があります。

自分の価値観をそのまま主張
「主張」を批判するのではなく、「主張した人」を批判
結論だけに興味を持ち、途中経過は無視
情報量をひけらかす
文章は読まずにスキャン

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