
歴史上の鉛中毒
歴史にでてくる鉛中毒関連記事です。
古代ローマ
古代ローマの実際の鉛の汚染についての論文は少ないのです。
女性の鉛白のおしろい使用、水道の鉛管、ワインの釜やジョッキ、甘味料が鉛だそうですが、当時の人骨など鉛濃度高低は論文により定説はなく、よくわかりませんね。
以下いくらかリンクしておきます。
全土の汚染
ローマ帝国全土の鉛汚染という研究
古代ローマ帝国の鉛汚染、広範囲にわたるIQ低下の原因だった|今回、グリーンランドや南極など3つの氷床コア記録と大気循環モデルから、ローマ帝国がかつてないほどの金属の採掘と精錬を開始した紀元前100年から紀元後200年の間に、大気中の有毒鉛濃度が急上昇したことが分かりhttps://t.co/dosQKUxTg8
— サイエンスあれこれ (@sarekore) January 7, 2025
ました。当時ローマ帝国内で生まれた子どもの血中鉛濃度は、平均して今日の米国の子どものおよそ3倍だったと推定されました。さらに、鉛汚染とその健康影響に関する現代の推定値に基づき、ローマ帝国の黄金時代に鉛にさらされたことで、人口全体のIQが1人当たり約2.5~3ポイント低下した可能性があるこ
— サイエンスあれこれ (@sarekore) January 7, 2025
とが分かりました。これは、ガリア、北西アフリカ、イベリア、ブリタニアの各属州を含むローマ帝国のほとんどの地域に当てはまりました。これまで、北極の氷床コアに保存された大気汚染記録を使用して、ローマ帝国全域における鉛汚染の期間は特定されてきましたが、今回の新しhttps://t.co/D0aJb02SQZ
— サイエンスあれこれ (@sarekore) January 7, 2025
い研究では、この発見をさらに拡大し、この汚染がヨーロッパの人々にどのような影響を与えたかを調査しています。つまり、氷床コアから汚染記録を抽出し、それを逆変換して当時の大気中の汚染濃度を算出し、人間への影響を評価した初の研究です。PNAS誌https://t.co/KsIigUIrwQ
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Pan-European atmospheric lead pollution, enhanced blood lead levels, and cognitive decline from Roman-era mining and smelting
https://www.pnas.org/doi/10.1073/pnas.2419630121
鉛の水道管
ローマ帝国滅亡の一因としてローマ人の鉛中毒を挙げる説があるくらいだが、地中海地方、一般にヨーロッパ大陸の水はかなりの硬水であり、水に含まれる炭酸カルシウムが管内部にすぐに付着(コーティング)することで水道水が直接、鉛管に触れることはなかったから、健康上の大きな問題にはいたらなかったと推測される。つまり、「ローマ帝国滅亡の鉛中毒説」は俗説と思われる
ワインの鉛甘味料
ベートーヴェン
江戸
今ではライトノベルにも登場するおしろいの鉛中毒について。
おしろいによる鉛中毒
将軍の乳母たちは鉛を含んだ白粉を使い、顔から首筋、胸から背中にかけて広く厚くぬった。抱かれた乳幼児は乳房をとおして鉛入りの白粉をなめる。乳児も白粉を顔や首にべったりぬられた。鉛は体内に徐々に吸収され、貧血や歯ぐきの変色、便秘、筋肉の麻痺などがおこり、脳膜の刺激症状が出ることもある。後遺症として痙性麻痺や知的障害がのこるケースもあった。鉛中毒は将軍の子女のみならず当事の大名や公家など上流階級にはよくみられた疾病だった。
こんな本を読みました
http://t104.blog72.fc2.com/blog-entry-31.html
江戸の加賀藩邸 溶姫御殿 厠跡から高濃度鉛検出
近世のおしろい鉛論文
19 ~ 20世紀にわが国で使用された含鉛おしろいに関する研究
吉永淳
https://www.kose-cosmetology.or.jp/research_report/archives/2015/fullVersion/Cosmetology%20Vol23%202015%20p173-176%20Yoshinaga_J.pdf
明治の「福助の鉛中毒事件」
鉛白粉から無鉛白粉への転機が訪れたのが、歌舞伎の人気役者が鉛中毒と診断されたことでした。明治20(1887)年4月26日、時の外相、井上馨邸で開催された天覧歌舞伎の数か月後の舞台で、当代随一の女形であった中村福助(成駒屋四代目、下図)が倒れ、その後、日本赤十字社病院の橋本綱常院長が鉛白粉による慢性鉛中毒と診断すると、この事件は大きな衝撃をもって世間に受け止められました。明治10年代の新聞広告ではすでに、鉛白粉の有毒性が指摘され始めていましたが、これを機に、白粉による鉛中毒が、梨園や花街にとどまらない社会問題として注目を集めるようになりました。後年、福助は鉛毒について振り返っていますが、先達の役者に相談した際、「白粉を塗って病気になるなんてそんな理屈はない」(『歌舞伎』(159)【雑35-52】)と一蹴されており、当時はまだ鉛白粉の有毒性があまり認知されていなかったことがうかがえます。
第29回 めーきゃっぷ今昔-江戸から昭和の化粧文化-
第1章 江戸時代の化粧
白粉と鉛中毒
https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/29/1.html