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日本の作文の歴史
文科省によると、作文は「豊かな人間性」を育むためでした。
学校での作文教育が必ず失敗する理由を発見
情報を持っている人が、情報をだれかに伝えるために文章を書く。 社会ではそれが機能するが、学校というのは、学校であるが故に機能できない。 これぞ、作文教育の根本的ジレンマだろうか。学校での作文教育と、社会で必要とする作文の間には何も関係がない。
日本作文史
簡単な作文史です。
偏見?でまとめた日本作文史
マンガ形式でわかりやすいですが、偏見に近い印象があるそうです。
日本の作文教育史に関しては「一般的な偏見」を書いた記事に近い印象。「戦前は綴り方、戦後は作文」って小学校だけの話(中学ではずっと「作文」)だし、「戦後。//童心主義が復活し現在まで続いています」ってオイオイ... http://t.co/oV8wDNQjCe
— あすこま (@askoma) June 23, 2015
大正期の自由作文「生活綴り方」は「生活指導」のためだった
大正期の小学校の「生活綴り方」は「生活指導」が目的でした。
戦前においては、修身科を通しての生活指導観と、生活綴り方教育を通しての生活指導観があった。
生活綴り方教育は、大正初期に提唱され、大正デモクラシーとともに広がった。太郎良によれば、1910年代末から1940年代において、児童を読者対象とする各種の綴方学習雑誌が月刊で発行されている。生活上の心得にとどまるものもあるが、1910年代から芦田恵之助らによって主張されたこの綴り方観には、生活教育を目的とし、かつ、児童をとりまく社会にも目を向けさせようとする主張があった。田上新吾著書『生命の綴り方教授』(目黒書店1921年)では、この書物の中で初めて「生活指導」という用語が初めて使われたとされる
生活綴方教育実践とは、子どもに自己の生活をありのままに文章表現することを促して、文章表現指導と並行して、自己の生活の見方、考え方、感じ方、行動の仕方を指導して、生き方の探求を促す指導をすることである
綴り方で論争が生じたのは 1913 年の芦田恵之助の「隋意選題方式」の提唱によるものであった。「隋意選題方式」は児童が自由に課題を取材し、子ども自身の言葉で書いていくものであり、友納友次郎の「練習目的論」の課題方式と正面から対立した。「隋意選題方式」では、綴り方は実用ではなく、「人格修養」を目的とし、教師は「児童の心を涵養すべし」とされた。
「子供らしい」「ありのままの真実を綴る」作文が鈴木三重吉により提唱され、鈴木が創刊した雑誌『赤い鳥』に多くの投稿が集まった
慶松 勝太郎
今もなお「読書と作文は「豊かな人間性」を育むためにある」という思想
今もなお、文科省においては「読書と作文は「豊かな人間性」を育むためにある」という思想により教育されています。
論理的文書を書く才能は80%が遺伝要因
実は論理的文書を書く才能は遺伝が80%以上だそうです。
昔そんな話がAERAに載ってましたね。こんな感じで(https://t.co/25bo2KCNkJ)。
— みなと@椎名耳かき店発売中 (@minatosyousetu) March 21, 2022
でも、音楽92%、スポーツ85%、数学87%に比べて、国(英)語は67%なんで「文才は遺伝で決まる」にしても、まだ望みがある気がします。
音楽なんて遺伝以外の要素が8%ですし……。 https://t.co/DqpihFq7Nv pic.twitter.com/lEHIyqfNYX
あ、文才が遺伝で決まるは、週刊現代の『人はどこまで遺伝で決まるのか【総合編】その2』の表かも。これでは80%以上が遺伝とのこと。 https://t.co/IIKC0uFtdq pic.twitter.com/ZqqQeAx5WI
— みなと@椎名耳かき店発売中 (@minatosyousetu) March 21, 2022
今のままの作文でよいのか?
今の作文教育への疑問です。
作文教育に対する疑問問題
Ⅰ.社会生活において必要とされる文章能力がいかなるものかという議論がない問題
Ⅱ.作文教育は、小学校、中学校、高校、大学の各段階で必要ではないか問題
Ⅲ.小学校から大学までの作文教育には一貫した思想が必要ではないか問題
Ⅳ.作文が言語技術教育のための手段であるとすれば、もっと言語技術を教育するための技術が論議されて良いのではないか。
慶松 勝太郎
論理的思考とは何か
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