日本の学校教育と道徳

日本の道徳教育について書こうと思います。


テキストとモラル

子供に人間の道徳絵本を読み聞かせすると道徳行動が増えます。

ただし、子供はキャラクターが動物の絵本だと読み聞かせても、道徳行動は増えないそうです。

朱子学におけるテキストと聖人

朱熹は四書五経と静坐により人は聖人になるという思想を持っていました。

かつての日本の道徳教育はテキストを読み上げて信じて疑わないこと

惺窩は、またつぎのようにも述べる。「聖賢の書を読みて、信じて疑はず。道、果してこ こに在り。豈人倫の外ならんや」、「聖人、何ぞ人間世を廃せんや」(「惺窩先生行状」)

https://www.dc.ocha.ac.jp/dics-jacs/consortium/consortium200912/shisou1.pdf

「徳育の内容については見解はさまざまであり、福沢はその基本を西洋に求めたが、天皇側近の元田永孚は儒学に求めていたというようにである。これに決着がついたのは教育勅語の渙発であったと思うが、教育勅語以降、徳育=修身科の内容は教育勅語に基づくということが原則になる。それは孝悌、仁慈、信実、礼敬、恭倹といった生活上のいわば個人に帰す徳目に始まり、「尊王愛国」「国家に対する責務」といった社会的徳目に帰結するという構造である。 戦前の修身科ではこれらの徳目を主題とする逸話を列挙して伝えようとしてきた。

http://shinyaoffice.seesaa.net/article/258045914.html

日本の学校では授業のすべてが道徳教育

日本の学校では国語の教科書、作文、感想文、掃除に至るまですべて道徳教育でした。

「岡倉がいう「英語の教師」とは「英語」を通して言語意識を強化し、「國語」によって「日本精神」を「覚醒」させた「国民」の「育成」をする「國語の教師」のことなのである。これはイングリッシュ「英語」という「実用スキル」を伝授する「英語教授」ではないことは一目瞭然である。 このように岡倉が言及する「國語」の「標準化」の目的とは「国民国家」の統一と強化のことに他ならない。統一され強化された「國語」意識をもって「日本精神」を陶冶した「国民」の育成が「英語教育」の「目的と價値」である。これはイ・ヨンスクのいう「国語」という思想の本質とピタリと一致する。つまり,「英語教育」の思想とはもう一つの「「国語」という思想」であったのである」

「英語教育」という思想--「英学」パラダイム転換期の国民的言語文化の形成The cultural politics of "English language education" in modern and postmodern Japan
小林敏宏
音在謙介
人文・自然・人間科学研究 (21), 23-51, 2009-03拓殖大学人文科学研究所

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