
グレゴリオ暦と各民族の暦の年始
たいへんなものになってしまいました。
1年の初めを何処に置くかは、民族により、時代によって異なる。候補は4つ(夏至、冬至、春分、秋分)だが、最もはっきりしている画期は、太陽の死と再生つまり冬至である。しかし、(普通は)植物の生長・結実・収穫という季節の節目=祭儀に隠れている。 pic.twitter.com/5vKpDekCrU
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) January 21, 2022
希臘は麦の刈り入れ時(つまり夏至の頃)を年初とした。秋の収穫時を年初とするのはユダヤ教(出エジプト23:16、34:22)であるが、後(ソロモーンの時代以降)に、春を年初とするバビロニア暦に合わせたという(スキアパレリ『旧約の天文学』)。
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図はhttps://t.co/7hoEZgvbOj pic.twitter.com/j92hNgmxPK
ローマ暦も本来は春(マルティウス月)が年初であったが、カエサルの改暦のとき、冬至の祭儀であるヤヌアリウス月に移したという(ダンカン『暦をつくった人々』)。いわば冬至祭が復活したかたちである。
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中国の年初も似ているが、原理はまったく違う。 pic.twitter.com/hyPUob9vP1
ギリシアはおそらくエジプトの影響を受けて夏至を基準にしたが、1年の初めは夏至に近い新月の日を元日とし、この月をἑκατόμβαιος μήν(百頭の牡牛の月)と呼んだ。百頭の牡牛を犠牲に捧げて盛大に祝ったことに由来するという。太陽暦を採用した後も、月の重要さに変わりはない。
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) August 10, 2017
メソポタミアでは、春分に近い新月の日を以て元日とした。バビロニアに捕囚されていたユダヤ人は、これをニサンの月として受け容れた。エジプトでは夏至が問題であったが、それよりも重要であったのはシリウスのheriacal risingであった。この日がエジプト暦の正月(トトの月)の元日。
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「死んだ月」を甦らせたのはエトルーリア人だった。彼らは第1番目の月を入口の神 Janusに捧げ、その次の月をFebruus に捧げて「死者を捧げ物と犠牲で鎮魂する祭」の月February とした。が、「エトルーリア王朝の追放によって終わりを告げ」た。以後、前153年まで、ローマ暦は3月1日が元日であった。 pic.twitter.com/F72aOMuQub
— TOMITA_Akio (@Prokoptas) July 3, 2024
1月1日
ローマ市民暦の年初で一般に7世紀まで使用された。the Spanish Eraが使用された地域ではもっと遅い時期まで生き残った。中世を通じて時折使われることもあったが、ヨーロッパ大陸で再び一般的に使用されるようになったのは、16世紀からである。
(*)The Spanish era era millesima octava スペイン・ポルトガル・ゴール南部(西ゴート王国の支配領域) 38BC/01/01(イースター表の元期)から数える (すなわち、38引くと西暦になる)
カタロニア AD1180 まで
アラゴン AD1350 まで
ヴァレンシア AD1358 まで
カスティーリャ AD1382 まで
ポルトガル AD1420 まで
太陽太陰暦 1月1日
春に一気に傾いてゆく朔の夜。今日から中国では春節、朝鮮ではソルラル、ベトナムではテト、モンゴルではツァガーンサル、そしてチベットではロサール。一日ごとに空は湿度を纏い、朝には土の香りで咽かえる。@チベット ラサ 1995年夏 pic.twitter.com/qRDnJRDlS8
— noir@🐑¡Iä! ¡Shub-Niggurath! (@Mahaa_kaal) February 18, 2015
"日本とベトナムとモンゴル以外は、現地の標準時にかかわらず旧暦の計算に中国標準時を使っていて、暦法も同じなので、旧正月は常に一致する。" http://t.co/SKK9xKOl
— Nori(情報ブロイラー) (@bgnori) March 18, 2012
2月下旬~3月初旬
ロサール(チベット新年)
3月22日
インド国定暦
— 🍑のん🍑🍥 (@Aice5_mdk) April 14, 2017
太陽暦の一種であり、1年の周期や閏年の計算はグレゴリオ暦と同一であるが、月の置き方が黄道十二宮に基づいている点が相違点である。1年を2ヶ月ずつの6季節に分けている。年始はグレゴリオ暦の3月22日であり、閏年の場合は3月21日に始まる。
3月25日(Christmasの前の) Annunciation 受胎告知日
「9世紀末のアルルに始まり、ブルグンディと北イタリアに広がった。教皇庁尚書局ではAD1088-1145の間使用された(local use だそうで 12/25 や 次項の 3/25 の期間と重複している)。ピサではAD1750まで残ったので、calculus pisanus とも呼ばれる。」
「修道院で使用されていたものがフィレンツェに伝わり、フランスに広まった。このため calculus florentinus とも呼ばれる。教皇庁尚書局ではAD1098から用いられ、イギリスでも12世紀末から使用されるようになった(散発的な例が11世紀半ばにある」
復活祭
Philip Augustus(フィリップ2世-尊厳王-在位AD1180~1223)がフランス に導入。オランダやケルンなど一部の地域に広がった(前日や前々日が年 初の場合もある)
春分や復活祭
「中世においては、春分や復活祭[9,10]を年初」
「03/01 ヴェネツィア(~18世紀)
03/25 イングランド(14世紀~1752年)、スコットランド?(14世紀?~1599年)
03/26 フィレンツェ(~18世紀)」
となります。何れも、以後の時代は 01/01 が年初となります
4月13日
古代バビロニアから伝わってきた黄道十二宮が現在の形に整備された思われるプトレマイオス(ローマ文明)の時代では、4月13日に春分点があったのだ。太陽が真東から昇り、一日の昼と夜の長さがほぼ一致 し、天の黄道と天の赤道が交差する春分点は、一年の始まりにふさわしい。
そしてこの日に太陽がおひつじ座の位置にあるので、ここを白羊宮 (黄道0度~30度)の入口とした。だから春分点=太陽が白羊宮に入るとき=新年だった。
それが地球の歳差運動のため、数千年後の今では春分点が24日ほどずれてしまった。これへの対処法の違いがトロピカル方式とサイデリアル方式の違いで、トロピカル方式では春分点に合わせて白羊宮の位置をずらした。つまり星座の位置からは少しずれたところにその名称を持つ「宮」が存在することになってしまうが、春分点との関係を優先させたのだ。一年のはじまりである黄道0度の場所をずらしたということだ。トロピカル方式では新年は春分点=3月21日頃になる。
4月中旬
夏至
日本では「 #夏至 」ですが、#ペルー は今日から「 #NewAndeanYear 」🇵🇪
— Visit Peru JP (@VisitPeruJP) June 21, 2024
新年のはじまりです♪
24日には、#クスコ でペルー最大の #フェスティバル 「 #インティライミ 」が開催されることもあってペルーは #お祭り 気分いっぱい😍#Peru #絶景ペルー #想絶ペルー pic.twitter.com/x8XbTglgHI
夏至の後の満月
アテナイでは夏至の後の満月をもって新年としましたので,今夜が新年の始まりです.
— 古代ギリシャのヘルメス (@kodaigirisyano) July 3, 2023
大事なことなので何度でも言いますけど,このヘラクレスは生まれたばかりの「赤ちゃん」ですよ😂 pic.twitter.com/sn1qVqfdDr
7月
ユダヤ暦(太陰太陽暦)。月齢観測による太陰暦では季節とのズレが次第に大きくなってしまうので、太陽暦との差を調整する暦法。イスラエルでは祭礼の為、今日でも使用されていますが、日本では明治改暦で公式に廃止。伊勢神宮暦は基本的にユダヤ暦(太陰太陽暦)と同一。但しユダヤ暦ではキシレが年始。 pic.twitter.com/gE3yCFUcHe
— 片山徹 (@_9105294027642) December 22, 2020
8月10日
新月観測日本委員会(公式)により、#日本 🇯🇵における新年のヒジュラ暦1443年度の第1月正月 #ムハッラム の第一日は #今日 、令和3年8月10日(火)となります。#ムハッラム #محرم_١٤٤٣ #Japan #日本 #اليابان
— السيد أسعد حسين (@s_asadh) August 9, 2021
9月11日
「エチオピアの新年は、ウンコタタシ(アムハラ語: እንቁጣጣሽ)と呼ばれる。」コロコロコミックとコミックボンボンで育った小学ウン十年生なので否応なく反応してしまう。悔しい。 https://t.co/1U9Zb5NaKt pic.twitter.com/oyiweflmPV
— Mustafa Al Yabani (@mustafaalyabani) April 6, 2021
10月15日
ケルト 暦について コリニーの暦
12月25日
イギリス(the Empire~当時はフランスに領地があったので England と表記しなかったのか?)では、13世紀の第2四半期まで。
教皇庁尚書局では、 AD962-1098の間。
スペインをのぞく西ヨーロッパのほとんどの地域では、12世紀まで。
ベネディクト会ではより遅くまで使用していたので、注意する必要がある。