知らない街のマクドナルド
午前10時。身支度を済ませ、車に乗り込む。目的地の沖縄県うるま市石川は、今自分が住んでいる街から、車で40分程の距離の街だ。
車の中は掃除が行き届いておらず、埃が舞っているが窓を開けて車を数分走らせると、気にならなくなる。メーターを視認して、まだ半分以上ガソリンが残っていることを確認し、今日の走行距離ならガソリンを補充しなくてもいいと判断する。スピーカーからは、取り立てて聞きたい訳でもないFMラジオが流れてくる。
地方の国道、県道の景色は大体同じだ。見慣れたコンクリートの道路、樹林、ガソリンスタンド、分譲住宅、集落、山、田んぼ、そしてイオンにマクドナルド。
初めて訪れた場所であってもこれらの風景の組み合わせが僕に、ここにも生活があることを実感させる。車の中から通り過ぎていく知らない街の風景に目をやると、「自分がここで生活をしていた人生はあり得たのか」と言う感覚が起こり、同一の時刻に複数の場所に存在することができないという事実に驚愕させられる。
この種の風景は、僕の感傷を刺激するのだが、特にポイントが高いのがチェーン店の外観。「人間社会の市場原理の中から生まれた、知らない場所にあるどこにでもある風景」というのが重要なポイントだ。それは、日常生活の中に存在する、数ある雑多なものの象徴的存在だ。毎日、生活をしなければならない。朝、睡眠の快楽を諦め、ベッドから這い出なければならない。出血覚悟で髭を剃らなければならない。ご飯を作らなければならない。トイレットペーパーを買ってこなければならない。そんな日常の中にあるわずかな黴の香りのような苦痛を、ときに包み込み、ときに黴そのものとなって僕の前に立ち塞がる。それがチェーン店だ。
僕が今住んでいる沖縄には、上限速度80kmの沖縄自動車道があり、皆この道路を「高速」と呼んでいる。高速からは海が見える箇所はほとんどなく、また米軍基地の位置との関係で単調な景色が続き、ドライブには適さない。植生が本土と異なるから最初のうちは車窓から見える景色を楽しむことができるのだが、この一本道の高速から確認できる植生はほぼ同じなため、すぐに飽きる。
そんな沖縄の高速から、見ることができる僅かな海が、うるま市石川の街越しに見える海だ。沖縄で生活をし、高速を何往復もしているうちに、いつか、高速から見えるこの風景の中に入ってみたいと思うようになり、今思い出したように車を石川まで走らせている。
30分弱高速を走り、石川ICを降りて、石川市の街並みにの中に入ると、高速から眺める際に目印となっていた高い工業煙突が近くにあり、高速から見ていた景色の中に自分がいることを実感する。そこから市街地に車を走らせると、沖縄県内では比較的珍しく、縦横に区画整理され、道路の車線もしっかりと引かれた街並みが現れる。その通りには、珍しいものは何もなく、ドラッグモリ、マックスバリュ、すき家といったチェーン店が連なっている。僕の地元の大分市の景色と言われても僕は信じただろう。
そうこうしているうちに、僕の目の前をあまりにも有名な「m」の看板が颯爽と通り過ぎていった。
いつも高速から見ていた海が見える街にいざいってみると、そこにも、確かにマクドナルドは存在し、煌々と輝きを放っていた。