人の行動が変わる“行動変容”は難しい。大混乱がきても99%の人は、自粛解除で、日常に戻る。
新型コロナウイルス感染症のパンデミックに終わりが見えない中、さまざまな業界の人々が「アフターコロナ」の世界についての議論をしていました。
世界各国の大都市圏を中心にロックダウンという強行措置が取られ、人と人との間隔を空けて直接接触の機会を減らすソーシャル・ディスタンシング戦略が市民の義務となり、テレワークやオンライン飲み会が一気に主流に躍り出ました。これは目に見える分かりやすい変化です。
コロナが暴いた日本社会の社畜体質度
この変化は、単に従来の産業構造やビジネスモデルが大きな転換を余儀なくされてきている、というだけではなく、非常時にどの程度まで私権制限は許されるのかという人権やプライバシーに関する認識も変容しつつあり、わたしたちにとってアフターコロナは別世界となり得る可能性が高いと言えます。
現在盛んに行われている議論では、今回のコロナ禍は簡単に過ぎ去ってくれるものとは捉えてはおらず、今後もコロナ禍、あるいは別のパンデミックに繰り返し見舞われる可能性を勘定に入れています。このような立ち位置は「ウィズコロナ」と呼ばれ、つまり従来の社会から「コロナ的なものを前提にした社会」に作り直すことが不可欠だというのです。
特にわたしたちにとって身近なのは仕事は、企業にとっての「働かせ方」、ビジネスパーソンにとっての「働き方」の問題は避けては通れません。最大の障壁は、単に「テレワークがしづらい」といった時代錯誤的な職場よりもむしろ、生産性で推し量る「労働力としての人間」にしか関心がなく、病気になったり致死性のある病原体を撒き散らしたりすることもある「人間の生物としての側面」を軽視するカルチャーです。
分かりやすい例を挙げるなら、日本では2月に入って市中感染の恐れが指摘される感染事案が相次ぎました。その際、発熱しても出勤する会社員らの「社畜体質」と称されるものが、ソーシャルメディアを中心に話題になりました。まず「風邪の療養のため有給休暇を取得して休んでしまう」社員よりも「風邪薬を飲んで仕事を続ける」社員の方が評価される現状があります。ロイヤリティーや根性論の側面です。
しかしその深層には、もっと厄介な心性があります。「心身の異常をコントロールすることへの抗い難い欲求」です。これは、心身のコンディションをできるだけフラットに保つことを規範とするもので、いわば現代社会の病理とでも評すべき「身体機能の平準化」志向です。
免疫系を活性化させ、細菌やウイルスなどの病原体の増殖を抑制するために起こる発熱は、いわばわたしたち人間の「生物的な限界」を知らせるシグナルです。けれども、このような「生物的な限界」に屈してしまうことは企業レベルでは「経済的なロス」を意味し、個人レベルでは「いつもの調子を狂わせるバグ」を意味します。
両者に共通するのは「生物としての人間」を度外視し「平準化された身体」をデフォルトとする社会システムへの盲目的な信奉です。驚くべきことに、そこには、病原体の宿主となる「有機的な身体」は想定されていません。企業も個人も、決して衰弱したり、死んだりしない「人工的な身体」が作動しているかのように「生物としての現実」が「ない」かのように振る舞っていることがその証拠です。これは一種のファンタジーです。
これによって何が起こるかは明白です。新型コロナウイルスは、わたしたちが常時依存している「24時間・週7日フルタイム」の経済システムこそを自らの「生命線」とするのです。
発熱をものともしない「働かせ方」「働き方」を推奨すればするほど、そのような「生物的な限界」を織り込まない社会を放置すればするほど、わたしたちは自らをウイルス爆弾に変えることになります。
しかも新型コロナウイルスは潜伏期間が長く、無症状の人も多いという極めてステルス性の高い特徴があります。「生物としての身体」を顧みないわたしたちの社会を、むしろ最大限に利用し尽くす狡猾なウイルスなのです。あえて悪趣味な表現をすれば、全社員がクラスターになってようやく終了する生体実験の被験者になるようなものです。
コロナ以前の価値観は捨て去らなくてならない
では「コロナ的なものを前提にした社会」における「働かせ方」「働き方」はどうあるべきなのでしょうか。少なくとも、コロナ以前の価値観は捨て去らなくてはなりません。
表面的には、労使双方で健康確認の重要性が高まるとともに、体温などの健康情報の共有化が一層進むことでしょう。感染リスクを踏まえて「不調者を働かせない」就業環境が整備されていくことは容易に想像できます。
入口に赤外線サーモグラフィーを設置し、体表温度をリアルタイムで計測することで、発熱者のスクリーニングを行い、扉の開閉と連動させるセキュリティゲートが一般化し、テレワークの実施により直接接触の機会を減らすだけでなく、本社をはじめとする事業所の分散化による企業内ソーシャル・ディスタンシングが日常風景になるかもしれません。
とはいえ、これは本質ではありません。特定の病原体によるリスク化で「不安」や「恐怖」の感情とともに呼び起こされた「生物的な身体」「生物としての現実」の次元に立ち戻らなければ同じ過ちを繰り返すだけでしょう。
それは、「24時間・週7日フルタイム」で進行する「生物的な限界」を無視した社会構造の大転換です。わたしたちが利便性、快適性と引き換えに終始抑圧し、犠牲にしてきた「生物的な身体」「生物としての現実」と向き合い、世界観、生命観といった哲学的な価値の序列を問い直し、ライフスタイルの変革へとつなげることが必要になるのです。
いつでもどこにでも自由に移動できること、いつでも好きなものを食べられること、いつでも誰とでもコミュニケーションが図れること……。このような日々が今や奇跡のように感じられるのは至極当然です。かつて生きられていた世界が「眠らないことで成り立つ贅沢品」に過ぎなかったからです。
開発や温暖化によって新興感染症が出現しやすくなることはよく知られている因果ですが、いずれにしても「生物的な限界」を認めようとしない経済システムは早晩、コロナ禍のような生物災害によって自滅に追い込まれるしかありません。
わたしたちの仕事場や通勤電車をウイルス爆弾で木っ端微塵に吹き飛ばすのは、他でもないわたしたちの社会において最も強固な観念という名の信管なのです。
現実は自粛解除で、日常の行動に戻る
国が出した緊急事態宣言が解除された後99%の人は元の生活に戻るだろう。上記のような事を考え、多くの人がこの自粛期間で今後どのように変化していくべきかを考え議論したにも関わらず、この後99%は間違いなく、日常の行動へ戻ります。戦争や災害や感染病のような大混乱が起きても、日常を取り戻すと、考えたことは思うだけになり、行動へ移りません。そして、次に同様の事が発生し同様の行動をするのです。自粛解除に伴い日常に戻る人は99%で、実際にその考えを遂行し行動する人は1%な訳です。こんな大混乱が起きても長期的に見たときの人間の行動変容は難しいということです。
実際に、日本でお全国で営業を再開する店舗が急増し「日常が戻ってくる」という安堵感の一方で、なんとなく腑に落ちないような気持ちを持ってはいるものの、以前のような日常生活を送る人が急増しています。
ここから、シナリオで書いたように、夏に向け大バーゲーセールがはじまります。そして「これで、もう大丈夫なんだと」言い出します。そんな直後に第2波、第3波の流行が起こったらどうでしょう。
是非、営業再開に当たって、新たな換気装置などの増設や衛生管理基準の見直しなど感染症予防対策を講ずること。飲食店など人の集まるところでは、換気装置の増設やトイレなどの改修などを休業期間中に行い、次の流行期に備えるべきでしょう。
日本では、休業給付金ばかりが注目されていますが、もっと大規模感染リスクを低減するための支援事業が注目されるべきです。足元の問題の解決も大切ですが、同じ事態を繰り返すことを避けるために、こうした先々への対策を打っておくことも今の時期の対応が大切でしょう。