好き嫌いで出来ている
「好き嫌いはダメよ」誰でも一度くらいは言われたことがあるのではないかと思います。
食べ物とかモノとか・・・人に対しても。
そのくせ大人になって悩むのが「自分が何が好きなのかが分からない」ということでもあるのです。
これは私自身を振り返ってみてのですが、たぶん好き嫌いの問題だけでなく、向き不向き、得意不得意など仕事としてお金になるかどうかを加味しているから感情だけでは決められない問題もあるのでしょうけれど。
でもこれもやはり、向き不向きとか得意不得意とか何か評価の対象として認められなければ「好き」と言ってはいけないと思い込んでいる状態だったといえるとも思うのです。
今振り返ってみて、私には子供の頃の「好き嫌いをなくしなさい」と「皆、友達だから仲良くしなさい」は全く必要なかったと思えてなりません。
野菜でも何でもいいのですが、日常の小さなレベルから「好き」と「嫌い」を認識しながら生きてこればよかった。
「好き」との付き合い方と「嫌い」との付き合い方は違っていて当然です。
どのように付き合うか学ぶために、まず必要なことは何が「好き」で何が「嫌い」かを自分自身が認識しておくことなのです。
「嫌い」と「嫌う」は違うことも分かるし、「嫌い」の理由は何か?探求することもできる、これは感情と行動のコントロールにも繋がるのです。
「ピーマンが嫌いだから食べない」もできるし「ピーマンは嫌いだけど食べる」もできるのです。
「あの人嫌いだから会わないように避ける」もできるし「あの人嫌いだけど会ったら挨拶はする」もできるのです。
付き合い方のボーダーラインのようなものを自分に持つためにも好き嫌いの認識は必要だったと思うのです。
私はこれを試してみて・・・・私にとって「嫌い」に入れていた人も実は私自身がその人のことを羨んでいただけかもと気づくことができました。
他には「嫌い」だと思っていたことも「なんで嫌いなんだっけ?」と考えているうちに特に理由なんてなくてただやったことがないからと気づいたこともありました。
「嫌い」な人にグサッとくる一言を言われても、「だから嫌いなんだよ」って流せます。(グサッとはきますが)
「嫌い」も適切に付き合えば別に悪くない気がします。
「好き嫌いはダメよ」で大きくなって私は「普通」の人間になってしまっていたのかもしれない。
今は『私という存在は「コレが好きでアレが嫌い」その集大成で出来上がっていて、コレやアレの分母が多ければ多いほど私の人生は豊かになる』と信じています。
「好き嫌いはダメ」「皆仲良く」が正しい考え方だという考え方は嫌い。
でもそれがいい子で親や大人が喜ぶと信じていい子でいようとしていた子供の頃の自分は健気で大好きです。