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安心して生き、死ぬことのできる社会を目指して -『だから、もう眠らせてほしい』を読んで

大学生の頃、英語のライティングの授業で「死」をテーマに英作文を書くという課題が出たことがある。
当時、オランダやベルギーが立て続けに安楽死を法制化して話題になっていたこともあり、私は「安楽死」を取り上げ、人が人として生きるために、安楽死は必要であると結ぶ英作文を書きあげた。

あれからもう15年以上が経つ。
この間、私は愛犬の安楽死に立ち合い、幾人かの親類と知人を見送り、2人の娘を授かった。
情報収集や日々の気分転換に利用していたTwitterで西先生のnoteを知り、更新される度、引き込まれるように読んだ。
そして、1冊の本にまとまった『だから、もう眠らせてほしい』を改めて読み、学生時代、あるいはそれ以前から漠然と考え続けてきた生と死の問題に向き合うようになった。

実は、『だから、もう眠らせてほしい』を読んで安楽死の問題に思いを馳せながら、私の脳裏に浮かんでいたのは「出生前診断」のことである。
未来を奪うという点で、安楽死と出生前診断には共通点があるし、第6章、宮下洋一氏との対談において出てくる「すべり坂」「死への同調圧力」が、どうしても「出生前診断」を連想させてしまったからだ。

私自身、新型出生前診断(NIPT)が解禁され、様々な議論がなされる中で妊娠出産を経験した。
二女妊娠時、分娩申込書と同時にNIPTのお知らせが配られ、わずか2年前の長女の時にはなかったそれに、出生前診断が一般的になりつつあることを痛感した。

NIPTで障害の有無を知る目的は、おそらく2つに大別される。
①障害が見つかった場合は中絶する
②心構えを含め、育てていくための準備をする
現状、NIPTで障害が見つかった妊婦の約9割が中絶を選択していることから、大多数が①を目的にしていることは明らかだ。
たとえ障害があっても産み育てたいと考え、検査を希望していないにも関わらず、親類から検査を迫られるケースもあると聞く。
宮下氏が指摘しているように、本当は生きられるはずたった人が、安楽死(ここでは中絶)を選ばされる面は、すでに現実のものとなっているのだ。

これらを受けて、出生前診断を「命の選別」として批判する声は根強い。
しかし、産み育てるのは親であり、ともに生きていくのは家族だ。
重度の障害を抱える子ども、医療ケアが必要な子どもを育てる親、特に母親には大きな負担がかかる。
預け先がなければ働くことはできず、経済的に厳しい状況に置かれる可能性もある。
順当にいけば親のほうが先に逝く。
残される子どもの将来を憂うのは当然だ。
それぞれに事情があり、悩み抜いた末の選択であれば、他人がもっともらしく「命の選別」というような言葉で批判できるものではない。

ただ、思うのだ。
障害があろうがなかろうが、安心して産み育てられる社会であれば、親の死後も、家族以外の社会的な繋がりの中で、本人が安心して生きていける社会であれば、NIPTはどうなるだろう。

おそらく、そのヒントはYくんが生き抜いた社会にある。
奥さん、ご両親、学校、病院、暮らしの保健室、キャンプ…
様々な関わりの中で生き、安らかで楽な死を迎えたYくん。
あの優しい社会の中でなら、NIPTは共に生きていくための準備として機能するかもしれない。

一方、ユカさんの事例を通して、本人が納得し、家族も納得しているのに、耐え難い苦痛を抱えて生き続けなければならない不条理を思う。
一人の親として、子を幸せに育てる責任を果たせないと考え、中絶を選択する気持ちもよくわかる。
社会的な関わりの中で支えられ、様々な手を尽くして、それでもなお耐え難い苦痛が癒されないのだとしたら…
安楽死もNIPTも「民主的なひとつの方法として」保障されるべきなのだろう。

今、改めて思う。

人が人として生きるために安楽死は必要だ。

産み育てる親のため、NIPTも必要だ。

ただし、これらは全て、安心して生き、死ぬことのできる社会あってこそ、真に個人のためになる。
偽善かもしれない。
実現が極めて難しい理想論かもしれない。
それでも、誰もが社会的な関わりの中で、その人のまま生きることの許される社会を願わずにはいられない。
そのための建設的な議論と判断が、私たち一人ひとりに求められている。

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