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武田惣角と会津武術

『日本武道全集  第5巻』(1966)に、武田惣角の初期の武歴について以下の記述がある(注1)。

惣角は初め若松の日新館へ武道の稽古に通い、小野派一刀流渋谷東馬の門にはいった。同時に父惣吉について大東流合気ならびに角力、棒術を習った。明治六年、東京車坂直心影流榊原健吉の内弟子となり、明治八年兄惣勝重病のため故郷に帰り、同年日光東照宮にて元会津藩家老西郷頼母改名保科近直〈ママ〉より合気柔術を習った。

前回の記事で紹介したように、武田家の戸籍の身分は士族ではなく農民であった。したがって、源義光(新羅三郎)を開祖とし、連綿と甲斐武田家、会津武田家へと大東流が受け継がれてきたという説は立証が困難になった。言い換えるならば、武田惣角が父や祖父から家伝として大東流を習った可能性は乏しいということである。

一方で西郷頼母(のちに保科近悳に改名)から教わったという説はどうであろうか。上記では、明治8(1875)年に日光東照宮で習ったとある。

『幕末激動期の会津藩家老西郷頼母近悳の生涯』(1977)によると、同年8月10日に西郷は福島県の都々古別神社の宮司に就任したとある(注2)。日光東照宮の禰宜に就任したのは明治13(1880)年2月2日である(注3)。したがって、その年(1875)に日光東照宮で大東流を学ぶことは不可能である。

かりに年の間違いを「些細なこと」だと受け流すにしても、先日紹介したように、弟子の佐川幸義は西郷が大東流を教えたという説に否定的であった。

さて、最後に武田惣角が会津藩藩校「日新館」に通ったという説を検討しよう。日新館には柔術場があり、柔術が教授されていた。もし本当に武田氏が日新館に通っていたなら、柔術を習う機会はあったのではあるまいか。

小川渉『会津藩教育考』(1931)によると、日新館への入学年齢は数えで10歳であった(注4)。戸籍上の武田惣角の生年は万延元(1860)年であるから、入学できる年は明治2(1869)年である。しかし、日新館は戊辰戦争(1868)で焼失したので、入学することは不可能である。

かりに入学できても、まず素読の学習からはじまり、武術を学ぶのは数え15歳からであった。さらに入学できるのは上士の子弟のみで、下級武士ですらない、農民身分の武田惣角が入学するのは不可能だったのである(注5)。

したがって、武田氏が日新館に入学できる可能性はなかった。

冒頭の引用文のうち、武田氏が会津で学べたのは小野派一刀流の渋谷東馬の道場のみである。渋谷は医師で会津坂下町に道場を開設した。いわば「町道場」である。日新館ほど格式を重んじなかったので、武田氏も入門することができたのであろう。

注1 今村嘉雄ほか編『日本武道全集』第5巻 (柔術・空手・拳法・合気術)、人物往来社、1966年、504頁。
注2 西郷頼母研究会『幕末激動期の会津藩家老西郷頼母近悳の生涯』牧野出版、1977年、90頁参照。
注3 同上、96頁参照。
注4 小川渉『会津藩教育考』会津藩教育考発行会、1931年、172頁参照。
注5 会津剣道誌編纂委員会編『会津剣道誌』全会津剣道連盟、1967年、198頁。


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