見出し画像

空手の型に漢字表記はあったのか

空手の型の漢字表記は一部を除いて不明である。それゆえ、大半はカタカナで表記されている。ナイハンチ、パッサイ、チントー、ジオン、ローハイ、シソーチンなど。

もちろん漢字で表記が伝わっている型もある。それらの多くは数字名の型である。三戦(サンチン)、十三歩(セーサン)、五十四歩(ごじゅうしほ)など。また一部の人名の型。公相君(クーサンクー)。ワンシュウは冊封使の汪楫(おうしゅう、?-1689)のことだとする説もあるが、筆者が知るかぎり戦後の説である。

さて、戦前から多くの空手家が型の漢字表記についていろいろな説を発表してきた。その方たちの前提はおそらく以下のようなものであろう。型――あるいは原型となった中国の套路とうろ――にはもともと漢字表記があった。しかし、中国人から学んだ琉球の人々は中国語の能力が十分でなく、型名を音で聞いてもそれがどのように表記されるか理解できなかった。あるいは最初は漢字表記が伝わっていたが、伝承の過程で漢字が分からなくなり音だけが伝わった。

しかし、果たしてそうだろうか。中国へ旅役(海外公務)や留学(官費、私費)で渡った琉球士族は知的エリートである。彼らは難関の科挙(コー)に合格して王府役人となり、長年様々な勤務をこなし、特に優秀だった人が選抜されて中国へ渡ったのである。留学生の場合は優秀であることは当たり前である。

もちろん彼らのすべてが中国語が堪能だったわけではない。しかし、読み書きは当然できるし、会話が苦手なら筆談でコミュニケーションを取ることもできたはずである。国師・蔡温さいおんですら筆談でコミュニケーションを取っていたという記録が残っている。その彼らが中国人の師匠のもとで型を教わって「漢字でどう書くのですか」と質問しないということがあり得るだろうか。

ひょっとして型を教えた中国人が型名を漢字でどう書くか知らなかった、という可能性はないだろうか。以前述べたように、中国武術は日本や琉球と違って、非支配階級の人たちの間で発展した。とくに清代以降は「反清復明」のもと、権力側から弾圧の対象となった人たちが秘かに中国武術を発展させた。

彼らは今日で言えば、反政府勢力、ゲリラ、テロリストであり、秘密結社を結成して普段は庶民として様々な職業に就きながら暮らしていた。そして、近代まで、中国の庶民の識字率は著しく低かったから、当然彼らの多くは漢字を知らなかっただろう。それゆえ、型(套路)を教えてその名称を口で言えても、「それは漢字でどう書くのですか」と、生徒から質問されても答えられなかったのではないだろうか。あるいはその師匠が型(套路)を創作して名称を口で言えても、漢字でそれをどう表記できるのか知らなかった可能性はないだろうか。

そして、数字の型の名称が伝わっているのは、数字の読み方は初歩の中国語だから、型を習った多くの琉球士族は師匠が漢字を知らなくても、自分のほうで「ああ、セーサンは十三のことだな」と想像することができたからではないだろうか。そして、語尾に「歩」「手」「戦」が付くのも容易に漢字を想像できたか、あるいは琉球側で付け足したのもしれない。

もちろん上記は仮説であるが、中国武術を教えた中国人の身分について、多くの流派で今日身分の高い人だったとしているが、それは後世の人の願望で、実際は大半は庶民階級だっただろうから、漢字で型名を言えなくても不思議ではない。冊封使の「武官」だったというのも、案外、拳法使いの船乗りだったかもしれない。普段は漁船や民間の運搬船に乗っていて、何十年に1度の冊封のときだけ臨時に雇われて琉球に渡っただけかもしれない。

2018年の台湾のシンポジウムでご一緒した中国史の専門家に中国武術をしていた人たちはどういう身分の人だったのでしょうかと質問した。すると、「苦力クーリーのような人たちだったのではないか」とのお答えだった。つまり肉体労働者である。清の時代、地方では治安が不安定だったため、人夫などの労働者は自分たちで秘密結社を結成して自衛しなければならなかった。そうした人たちが中国武術をしていたのだという。

それゆえ、日本の武士や琉球士族のように、中国では支配階級が武術の主な担い手ではなかった。わたしたちが中国武術やそれの伝来を考えるとき、そうした文化的背景の相違を理解して考える必要がある。


出典
「空手の型に漢字表記はあったのか」(アメブロ、2018年12月30日)。


いいなと思ったら応援しよう!