武田惣角の系図と戸籍
『武田惣角と大東流合気柔術』(2002)に、以下の記述がある(注1)。
周知のように、大東流合気柔術は新羅三郎こと、源義光(1045 - 1127)を開祖とする。武田惣角が門人に与えた目録の系図には、清和天皇からはじまり、源義光(甲斐源氏の祖)とその子孫、そして武田国継より会津に移り住んだ「会津武田家」の系譜が武田惣角まで記されている。
しかし、実際には武田国継の次には武田惣角の祖父、武田惣右衛門が「十余世孫」として記され、その間の十数代の歴代当主は省かれている。そして、惣右衛門の次に「孫子」として武田惣角の名が記されていて、父、武田惣吉の名も省かれている。
通常、武道の伝書において、このように歴代の継承者が10代以上も省略されるのは異例である。とりわけ大東流が会津藩の上士にのみ伝授された、格式を重んじる「殿中武術」であるなら、なおさらである。こうしたことから、武田家の系図の信憑性に疑問が持たれてきた。
本当に武田惣角の先祖は甲斐源氏からの分かれなのであろうか。武田国継は実在の人物なのか。たとえば、「レファレンス共同データベース」のウェブサイトには、山梨県立図書館の提供として、武田国継の実在性について以下のように回答している。
つまり、大東流並びに武田家に伝わる巻物、口碑を除くと、近世・近代史料からは、武田国継の実在性は確認できないのである。
さて、2019年の日本武道学会において、高久達英(ペンネーム・池月映)氏が「大東流史実と合気の意味の研究」と題して発表された(「日本武道学会第52回大会発表抄録」)。その中に、新たに見つかった武田家の戸籍に関する発表があった。
上記によると、惣角の父・惣吉の職分は「農」とあり農民身分であったことがわかる。これは従来言われてきた武田家は代々神職にあった(注2)、もしくは会津藩士であったという説(注3)と矛盾する。惣吉は文政3(1820)年の生まれで、壬申年、すなわち明治5(1872)年時点で数え年53とある。
また惣吉の父の名は、従来言われてきた惣右衛門ではなく惣左エ門(惣左衛門)であり、明治5年にはすでに亡くなっていたことがわかる。
次に惣角の項目を見る。
細かいことであるが、戸籍名は惣角ではなく摠角である。父、祖父の名も同様である。万延元(1860)年生まれで、明治5年時点で数え年13とある。一部の書籍で惣角の生年は安政6(1859)年10月10日とされてきたが、1年ずれていたことがわかる。ただし昔は戸籍の生年と実際のそれとは一致しない場合もあったので、その点は留意する必要がある。
この戸籍はいわゆる「壬申戸籍」の控えのようである。現在、壬申戸籍は差別身分が記載されていることから法務省によって閲覧不可とされているが、その控えが地方の旧家に保存されている例がある。どうもこの戸籍はそうした類のもののようである。
さて、この戸籍から武田家は士族ではなく農民であったことが判明する。したがって、大東流は源義光を開祖とし、代々甲斐源氏、さらには会津武田家に継承されてきた秘伝武術という説は証明が極めて困難になった。
武田惣角が甲斐源氏の末裔でないと知っていて偽りを語っていたかは不明である。あるいは父親からそのように聞かされて信じていたのかもしれない。ご落胤伝説のように、いまは農民だが先祖は高名な武士であったと武田家では信じられていたのかもしれない。
ただ武田惣角は目録に「会津藩士」という肩書を記していたが、これは事実ではないことは本人は知っていたはずである。
武田という名字はいつからのものであろうか。江戸時代、農民は名字をもたなかったが、正式ではないが慣習として使われる例はあった。
また武田惣角の母とみは会津藩の武術家として名高い黒河内伝五郎の娘であり、惣角は明治元(1868)年に黒河内家の養子になったと説く書籍もあるが(注4)、上記戸籍からはそうした事実は確認できない。
いずれにしろ、農民身分の武田家に代々武術が継承されてきたという説は時代状況的にありえたとは考えがたい。また大東流は会津藩の御留武術として上士にのみ伝授されていたという説も同様である。もしそれが事実なら武田家は何ゆえ士分に取り立てられなかったのであろうか。
この戸籍の発見によって、大東流は武田惣角が会津もしくはほかの地域で学んだ柔術をもとにして創作した可能性がより高くなったといえる。
なお、武田家の戸籍は高久氏の「会津の武田惣角」のウェブページで見ることができる。
注1 どう出版編集部編『改訂版武田惣角と大東流合気柔術』どう出版、2002年、15頁。
注2 松田隆智『秘伝日本武術』新人物往来社、1978年、182頁参照。
注3 今村嘉雄ほか編『日本武道全集』第5巻(柔術・空手・拳法・合気術)、人物往来社、1966年、504頁。
注4 『改訂版武田惣角と大東流合気柔術』17、279頁参照。