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松田徳三郎

福州の湖城道場に関わる湖城のウメー、真壁ウドゥン、松田徳三郎のうち、実在がはっきりと証明できるのは松田徳三郎である。1899年(明治32)に沖縄県知事・奈良原繁から陸軍大臣・桂太郎に宛てた上申書に彼の情報が記載されている。

仝上仝(沖縄県国頭郡本部間切)辺名地村九九番地 平民
松田徳三郎
明治十一年四月三日生

「清国脱走者氏名」

上記によると、松田は1878年(明治11)生まれで、ちょうど満20歳で徴兵検査を受けなければならない1898年(明治31)に脱清している。上地完英監修『精説沖縄空手道』(1977、以下上地本)によると、出航から湖城道場へ入門するまでは上地完文と足取りは全く同一であると書かれているが、実際には出航は上地先生より10日遅れの5月19日であった。

松田の武術修業について、上地本では以下のように書かれている。

真壁ウドゥンに揶揄された上地は周子和のもとに走り、松田は湖城道場で修業を続けていたが、他の道場に移ったどうかは不明である。それでも二人は、結果的には、中国語に通じ、漢方薬を学び、同じ門派を修めて帰ってきた。
(中略)
上地完文が周子和から伝授されたものは型三つに体練法一つであった。型三つとは「三戦」、「十三」、「三十六」であり、体練法とは「小手鍛え」である。ところが松田徳三郎が修得したものは上記のほかに「壱百零八」という型と古武術としての「中国剣法」がある(第3編431頁)。

上地先生は湖城道場を去り周子和とされる中国人に師事したが、松田は湖城道場に留まった。ほかに学んだかは不明だが、二人の門派は同じであり、型は三戦、十三、三十六、壱百零八の4つがあった。松田が移籍したかどうか不明ならば、この4つの型は湖城道場で学ばれた可能性が高くなる。要するに、彼は福州で「久米村手」を学んだのであろう。

壱百零八については、上地本では以下のように書かれている。

上地完文と松田徳三郎の拳門には主要な型が四つあり、最後の型が「壱百零八」であったという事実は上地完文も認めている。彼は後に「壱百零八」に言及し、「ウママデー ナンジェー イリユーサンタン」と述懐し、修業時間の絶対量の足りなさを示唆している(第3編432頁)。

「ウママデー ナンジェー イリユーサンタン」は「ここまで難儀することはできなかった」という意味である。「難儀」は苦労とか修業の意味である。したがって、「壱百零八まで修業することはできなかった」と上地先生は語ったわけである。

上地先生と松田が同じ門派だったという根拠は、上地本では書かれていない。また、松田の武術は失伝したと書かれているので、弟子がいなかったか、あるいは弟子はいたがその後の継承者を残せなかったということであろう。

湖城嘉宝と上地完文」でも述べたが、上地本では、上地先生と松田の門派は同じであり、その理由としてイワーと周子和が同門であった可能性を示唆している。しかし、道場主の湖城が湖城嘉宝かどうか不明であり、また上地先生の師匠が周子和だったという説も近年反対意見が出てきている。

そうすると、上地先生が学んだ型は湖城道場の型であり、それに中国での修業の成果を加味したと推測するほうが合理的ではないであろうか。そうだとすると、上地流の源流も「久米村手」もしくは真壁ウドゥン(御殿)の「古流首里手」ということになる。

松田が学んだ剣法は中国剣法と書かれているが、これも湖城道場で学んだのなら、(その源流が中国であったとしても)久米村の、すなわち沖縄の剣術だったのであろう。また、松田が使った刀は「“青龍刀”(なぎなたのような形の刀)」であり、これを二振り持ち帰ったとある。

青龍刀というのは日本では誤解されているが本来は刀ではなく薙刀に似た武器のことで、それゆえ、松田が持ち帰った刀は実際は薙刀の刃の形に似た中国刀だったのであろう。二振り持ち帰ったのなら、松田が学んだ剣法は二刀流だったのかもしれない。

本部御殿手の剣術(二刀)

本部朝勇は薙刀の刃のような形をした刀を二振りもっていた。沖縄の山刀(やまなじ)に形が似ているので上原先生は山刀と呼んでいたが、柄には飾り紐がついていて豪華な造りの中国風の刀だったという。本部御殿手にも二刀の剣術が伝わっているが、これも久米村手と関係があったのであろうか。

出典:
「松田徳三郎」(アメブロ、2021年11月6日)。


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