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日中琉の武術観の違い

日本では武術は武士が修業してきた。江戸時代に限っていえば、上は将軍から下は下級武士に至るまで修業した。「文武両道」という言葉があるように、武術は学問と等価値に扱われた。

もちろん平民がまったく武術を修業しなかったわけではないが、稽古の主体は武士だった。こうした価値観の形成には鎌倉以降の武家政権(幕府)の存在、近世では武家諸法度や徳川吉宗による武芸奨励策も影響しているのであろう。

しかし、このような日本の武術観が世界的に見て必ずしも一般的だったわけではない。武術は下賤な者がするもので、身分の高い者はすべきではないと考える国もあった。

これについて、以前中国の研究者が『月刊武道』に興味深い記事を書かれていた。

それは日本武術と中国武術の比較である。その研究者が言うには、中国では少なくとも宋代には、すでに「文高武低」の思想があって、武官や武術は低く見られていた。

清代になると、中国武術は「反清復明」の思想のもと、被支配者階級において発展し支配者階級の側からはしばしば弾圧の対象となった。

「反清復明」というのは、異民族である満州族が立てた清朝を倒し、再び漢民族の明朝を復興しようという運動である。この運動に身を投じた人々は、秘密結社を作り地下に潜り、あるいは福建少林寺に集結して清朝に抵抗したが、この福建少林寺も清朝の焼き討ちに遭い遂に陥落した。この寺を拠点にして戦っていた武術家たちは四散して、それ以降各地で抵抗しながら中国武術の各門派が成立していった。

福建少林寺の実在性については疑問視する見方もあって、従ってそれにまつわる逸話も武侠小説によるフィクションの可能性がある。だから、個別のエピソードの信憑性は分からないが、ただ大きな流れとしては、上で紹介した研究者が指摘した通りだったのだろう。

では、沖縄の空手(唐手、ティー、ティージクン)はどうだったのだろうか。空手は、日本と同様、基本的に士族によって稽古されていた。田舎の農民たちの間では稽古されていない。もし稽古されていたとしても――明確な記録はないが――、それは貧窮士族が田舎下りをして作った士族集落「屋取(ヤードゥイ)」で細々と行われていた程度だったと思う。そういう意味では、琉球でも日本同様に、武術は士族が稽古するものだったわけである。

出典:
「士族の武術」(アメブロ、2018年8月26日)。


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