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秘伝型

昭和51(1976年)、宗家(本部朝正)は上原清吉から本部御殿手宗家の継承を要請され受諾し、上原先生に師事するようになった。本部御殿手は、本部家の者しか継承できないというのが本部朝勇の遺言だったからである。最初、上原先生は朝勇先生の孫に頼みに行ったが、継承を断られたという。それで、上原先生は宗家に再度依頼しにきたわけである。

さて、そのとき宗家は大阪で上原先生から「合戦手(カッシンディー)」という型を習った。これは上原先生が創作した型である。

合戦手

この合戦手は三、四、五と3つあるのだが、当時は基本型である元手一、二(握拳と開手)の上に位置する型として、元手三、四、五と呼ばれていた。最初に教わったのは大阪で昭和51年である。そのときは上原先生とマンツーマンでの指導であった。

それから上原先生は毎年のように大阪に来られて、本部御殿手を教授した。1977年に、本部朝基の空手の組織、日本空手道本部会が結成されると、本部会の埼玉県のメンバーも、上原先生から本部御殿手を大阪で習うようになった。

しかし、上原先生は、彼らには違った合戦手を教えた。宗家は疑問に思ったが、上原先生に尋ねるのは失礼かと思い、疑問を口にしなかった。

2、3年後、宗家は沖縄に行って上原先生の道場で稽古した。そのとき、宗家は沖縄の門弟たちが合戦手を練習するのを見学したが、それがまた異なっていた。

「なぜ同じ型なのに3つも種類があるのだろうか」。さすがに疑問に思って、その場にいた道場生のS氏に質問した。すると、S氏はちょっと驚いた表情を浮かべながら、「それは先生が特別(宗家継承者)だから私たちと違う型を習ったのです。私たちはまだそこまでは達していないので、秘伝の型は教わっていません」との回答であった。

それで宗家は上原先生が弟子のランクに応じて、同じ型でも異なったバージョンを教えていることをはじめて知った。

上原先生の教え方は非常に用心深かった。最初から本当の型を教えるのではなく、少し変えて教える。修業が進むと、また少し変えた型を教える。段々とより実戦的となる。しかし、本当の型は秘伝として宗家継承者にしか教えなかった。宗家は上原先生のこの秘密主義をその後何度も経験した。

この教え方は、本部御殿手のみに限ったことではなく、昔の沖縄ではある程度行われていた。いまでも公開の演武の場では、本来の型の挙動を少し変えたり省略して演武するという話は時々聞く。

もちろんこうした教え方は「空手の公開」とは相容れない。明治38(1905)年頃、沖縄県師範学校や旧制中学校で、空手(唐手)が学校で教えられるようになって以来、空手の教授方法はより開放的となった。師範の号令のもと、生徒全員が同じ型を稽古するようになった。

戦前の首里城での演武の様子

本部御殿手は「学校教育」には取り込まれなかったので、その教授法は大正時代になっても依然として琉球王国時代そのままだったのである。そして、戦後になっても上原先生は師から受け継いだ教授法を踏襲していた。

上原先生は本部朝勇を崇拝していたし、その遺言を忠実に守ろうとしていた。それゆえ、上原先生は本当の技は本部家だけに伝授しようと考えていたのであろう。

出典:
「秘伝型」(アメブロ、2016年2月22日)。

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