関係の糸を引き裂き、自由な存在を撒き散らせ─02 「無縁」の原理
本連載01では、『君の名は。』と〈物語〉シリーズを対比的に考察した。
存在に深く食い込んだ関係性ではなく、無関係的な軽やかな存在のほうへ。運命的なムスビの線から、自由な乗り換えへ。
ムスビから乗り換えへの乗り換えこそが、本連載の目指すところだ。
1 「無縁」の原理
ムスビという縁を断ち切り、自由な乗り換えを可能にするもの。それはかつて「縁切寺」と呼ばれた。
歴史学者の網野善彦は、『無縁・公界・楽』のなかで、江戸時代の縁切寺をはじめ、日本におけるさまざまなアジール(避難所)を考察し、そこに「「無縁」の原理」というものを見いだしていく。
現代とはちがい、江戸時代、女性には離婚を要求する権利がなかった。他方で夫は、自由に離婚を言い渡す権利を有していた。妻は、特別な事情を除き、自ら離婚することが許されていなかったのである。そこで、夫との絶縁を望む女性は縁切寺へと駆け込んだ。その敷地に、身につけたものをなんであれ投げ入れたとたん、追手は手出しができなくなる。そうした寺のしくみがあったのである。
網野はこのようなアジールの事例を、江戸時代から戦国期、古代へと歴史をさかのぼって収集する。それらは「無縁」「公界(くがい)」「楽(らく)」といったことばで表現されているが、網野はそこに「「無縁」の原理」という一貫したものを見いだす。
「無縁」の場に立ち入ったものは、たとえ罪人であっても、一切の世俗の縁から断ち切られ、自由に生きることが許された。「無縁」の場は、それ自体が世俗の縁から断ち切られている。そして、そこに立ち入った者もまた、縁が断ち切られることになる。縁を切断し、自由な存在へと変貌させる力。それが「無縁」の原理だ。
網野は、場所だけでなく、ある種の人びとのうちにも「無縁」の原理を見いだす。とりわけ強調されるのは、「職人」や「芸能民」だ。こうした人びとは、さまざまな集団のあいだを自由に遍歴する。彼らがなににも属さない「無縁」の者であったからこそ、そうした遍歴が可能になったのである。
『無縁・公界・楽』の中間地点にあたる第11章では、「無縁」の特徴があらためて整理されている。全部で8つの特徴が挙げられるが、ここではとくに5つ目の特徴を確認しておくことにしたい。5番目の特徴として掲げられるのは、「私的隷属からの「解放」」である。網野は、いくつかの文献を引用したあとでつぎのように述べる。
・・・・・・これらの文言は、私的な主従関係、隷属関係が、無縁・公界・楽の場には及び難いことを明らかに示している。だからこそ、公界の場は、主持の武士が住むことを拒否しえたのであり、また下人・所従、あるいは欠落ち百姓の走入る場となりえたのである。
あらゆる隷属関係が断ち切られた場が「無縁」の場だ。しかもその特徴は、場だけのものではない。
人に即しても同様である。公界者・公界往来人は、大名、主人の私的な保護をうけない人々、私的な主従、隷属関係から自由な人々であった。
「無縁」の人もまた、「無縁」の場と同様に、私的な隷属関係から断ち切られた存在であった。彼らは、忍野メメのことばで言えば、「人は一人で勝手に助かるだけ」という外的関係の世界を生きる人びとだ。彼らは、自由な存在だったのである。
2 「無縁」の原理の諸段階
網野は、膨大な資料を引用し、綿密に証拠を重ねることによって、「無縁」の原理という一般原理が日本の歴史のうちに根付いていたことを描きだす。ところが『無縁・公界・楽』の最終章では、そうした実証的な作業から一気に解放されたかのように、形而上学的とさえ言いうるほどの大胆な仮説を提示している。
網野は、「無縁」の原理が日本人だけでなく人類一般のうちに息づくものであるという見通しをたて、その発展・衰退の段階を描きだす。この段階を簡単に確認しておこう。
まず第0段階として、「原無縁」の段階がある。人類のもっとも原始の段階では、「無縁」と「有縁」は未分化であり、「無縁」の原理は潜在的な状態にとどまる。「「無縁」の原理は、その自覚化の過程として、そこから自らを区別する形で現われる。おのずとそれは、「無縁」の対立物、「有縁」「有主」を一方の極にもって登場するのである」。そのように、網野は考える(あまりに形而上学的な発想だ!)。
第1段階である「聖的・呪術的段階」は、こうした自覚化を経ることによって現われる。この第1段階において「無縁」の原理は、呪術的で、さまざまな神にむすびついた「聖なるもの」として現出する。
ここからさらに、「無縁」の対立項である「有縁」の側が国家という組織を生み出し、それによって「無縁」の側にも組織化が介在することになる。これが、第2段階の「実利的な段階」である。網野は、つぎのように述べている。
「原無縁」の衰弱の過程は、ここにいたって本格的にはじまるが、それとともに、「無縁」の原理の自覚化の過程も進むのである。アジールの第一段階、「原無縁」の色、なお著しく濃い、聖的・呪術的なアジールと、広範に重なり合いつつ、第二段階のアジール、実利的なアジールが出現するとともに、自覚化された「無縁」の原理は、さまざまな宗教として、組織的な思想の形成に向っての歩みを開始する。
第1段階では、原始の「原無縁」はまだ鳴り響いているが、第2段階にいたってその共鳴が弱まり、それとともに「無縁」の原理は組織化された構造をもつにいたる。それが、「無縁」「公界」「楽」と呼ばれた、組織だったアジールである。
だがこれは、すでに第3段階である「終末の段階」へのはじまりでもある。「「有主」「有縁」の世界を固めた大名たちによる、「無縁」の原理のとりこみはより一層進行し、国家権力の人民生活への浸透も、ますます根深いものになってくる」と網野は言う。国家権力の側、「有縁」の側からすれば、自らの支配の空白地帯である「無縁」の場を、放置しておくことはできない。それゆえに「無縁」の場は、「有縁」の世界の権力者たちによって徐々に取り込まれていってしまう。
当然ながら、現代にはこうしたアジールは存在しない。たとえ犯罪者であってもそこへ駆け込めば、すべてがチャラになってしまうような法の空白地帯。そういったものを抹消し、すべてを法のネットワークのうちに取り込むことによって成り立っているのが、近代以降の社会である。
3 無縁・公界・楽・ヤックル
さて、以上のように網野が描いた「無縁」の原理を、具体的なイメージで表現したものとして、宮崎駿監督『もののけ姫』を挙げることができる。『もののけ姫』が描くのは、「無縁」の原理が生き生きと満ちた中世日本の世界だ。
(網野自身が『もののけ姫』におけるアジールに言及している。網野善彦『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』岩波書店、2013年、31-34頁)
とりわけ、タタラ場はアジールそのものである。劇中のタタラ場には、銃製造の技術をもつハンセン病患者や、世俗の世界に行き場をうしなった多くの人びとが住む。彼らはみな、世俗の縁を断ち切り、製鉄という職人的な仕事に従事している。タタラ場は、「無縁」の原理を体現したユートピアである。
(余談だが、『君の名は。』の糸守町には、劇中に映る「糸守の文化」によれば、じつはかつて「蹈鞴(たたら)製鉄場」があった。糸、ムスビ、縁を象徴する糸守町は、かつては「無縁」を象徴するタタラ場でもあったのである)
『もののけ姫』のうちには、他にもさまざまな「無縁」を見いだすことができる。とくにヤックルの存在は重要である。主人公の少年アシタカが、なににも属さない「無縁」の人として、あらゆる存在のあいだをかけまわることを可能にするのは、ヤックルの存在だ──無縁・公界・楽・ヤックル。
しかも、ヤックル自身もまた「無縁」の存在であると言える。ヤックルは、アシタカに飼いならされた、たんなる家畜ではない。自ら判断し、自らの意志で行動しているように見える。山犬に育てられた「もののけ姫」サンが、ヤックルに対して「好きなところへ行き、好きに生きな」と語りかけるシーンがある。それでもヤックルは、自らの意志でアシタカとともに行動しているのである。
とはいえ、「無縁」の存在であるヤックルとアシタカの関係は、乗り換え不可能な絶対的な絆ではない。物語の終盤でアシタカは、負傷したヤックルを残し、山犬に乗り換えて、サンのもとへと向かっていく。
サンとアシタカの関係も、「無縁」の存在どうしの関係だと言える。それは、『君の名は。』の三葉と瀧のように、運命の糸、ムスビによって緊密に結ばれた関係とは異なる。物語の最後、アシタカはサンとの別れ際に「サンは森で、わたしはタタラ場で暮らそう。ともに生きよう」と語りかける。「無縁」という間隙によるこの距離が、ふたりの固有の関係をかたちづくっている。
4 「無縁」の帝王・シシ神
劇中で最大強度の「無縁」者だと言えるのは、シシ神だ。彼は、人間と神々との争いにいっさい無関心である。敵/味方ということにまったく興味がない。人間や森の神々は、シシ神のおこないになんらかの意図を読み取ろうとするが、彼はじっさいにはたんに気まぐれで、生き返らせたり、死なせたりしているだけなのかもしれない。彼は、自分の首を奪った人間を追いかけて、山々を荒らしつくし、最終的には朝日を浴びて消滅してしまう。かんぜんに縁を断ち切り、どこかへ去ってしまうのだ。
真の「無縁」者、端的に無関係な存在は、「関係/無関係」という対立自体とさえ無関係である。この区分に対して無関心なのだ。まったくの無関係なポジションにいるかと思いきや、とつじょ関係してきて場を撹乱する。だがその者は、気づけばすでにどこかへと立ち去っているのだ。
今回の主張をまとめよう。糸井重里が考案した『もののけ姫』のキャッチコピーを踏まえて言えば、それはつぎのようになる。
生きろ。「無縁」の原理を。
ムスビの縁を断ち切り、「無縁」の人として生きること。鮮やかな乗り換え、遍歴をつうじて、自由に生きること。それが、網野の「無縁」の原理を考察することで示したかったことである。
連載最終回の次回は、この「無縁」の原理をさらに網野以上に一般化し、実在一般にかんする原理として思考することにしたい。
▶▶ 連載03 退隠する対象
本記事は『中央評論』311号所収の拙論「ムスビと乗り換え──関係と無関係の思想をめぐる試論」を元に再編集したものです。同誌はあまり流通していない大学内向けの雑誌であり、また刊行から時間が経っているので、noteにて公開いたしました。同誌の特集「リアリティの哲学」には、拙論以外にもおもしろい論文がたくさん含まれているので、機会があればぜひ手にとってみてください!
ヘッダー画像制作:村上真里奈
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