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私が感じた家族の距離とやさしさを、父とじいちゃんの姿から考える


私はあまり自分の育った家族について話すのは得意ではない。自分の家族をあまり好きではないからだと思う。だからといって嫌いだとかそういうワケでもない。

ただ本当に表現の仕方がわからない。

よく読む家族の話や、ほんわかする出来事を目にして、仲良しに描かれるその物語がどこか羨ましく、素直に読めずに疑念を感じてしまう。

それを悪く感じるとか、嫌悪するとかでもない。ましてや否定しているとかそういう風には思われたくはない。

だから、自分の気持ちを知るためにも書いてみようと思った。

私は男三人兄弟の長男で育ったのだが、思い出せる範囲で遡ってみても、父はほとんど仕事で家にいた記憶がない。

だけど、私が思い出す時に記憶に残っているのは、父が小学校の授業参観に来た記憶や、習い事を見学しに来ているその姿が頭に浮かんでくる。

それも母に比べれば圧倒的に少ないはずなのに、都合よくそういう記憶だけが残っている。

これは、きっと自分が嬉しかったからだと思うが、本当にそれしかなかったのかは思い出せない。ただその記憶が刻まれているのだなと今なら思える。

例えば自分の誕生日や弟の誕生日に一緒に何かお祝いをしたのだろうけど、そういう記憶もほとんどない。

私の家は、当時7人で住んでいた。母の両親との同居だった。

父にしたら義理の両親にあたる2人と、二世帯住宅でもない普通の建売り住宅にギュッと詰め込んだ生活をしていた。一階には、じいちゃんとばあちゃんが住み、二階に私達家族が住んでいた。二階と言っても部屋は2つで、私達兄弟の部屋は共同でもちろん個室でもなく、6畳に三人だった。

子供ながらに感じていたのは、狭さや生活の苦しさとかではなく、テレビの世界にある団欒な家庭とは、必ずしも全員に当てはまるワケではないのだなということだった。

父がじいちゃんと何度も喧嘩していて、台所でテーブルを挟み向かい合い大声で怒鳴りあっている記憶が鮮明にある。決まって私がもう寝ていた時間だから、深夜近くだったのだと思う。

狭い家なので、大声や険悪な空気などは2階で寝ていた私にも聞こえるし、そういったいつもと違う空気とは子供ながらに敏感に感じるものだった。

父は、怒るとよくテーブルを叩いて怒鳴っていた。その度に不安になった記憶がある。

喧嘩が長い時間続く時は、弟達も自然と起きてきて3人で階段で話し声を聞いていた。弟達は、不安で泣いていたりしていたのも覚えている。

昔の教育がそうなのか知らないが、兄弟喧嘩や母の言うことを聞かないからと、よく兄弟で玄関の外に出され、泣きながら謝っていた気がする。

ただこれに関しては、私の家だけがそうだったワケではなく、頻繁に近所でも見なれた光景だった。次の日友人と学校で顔を合わせても、そこは誰も触れないルールみたいなのが存在した。

私は、父が家にあまりいないのを良いことに思春期を挟み、どんどん素行不良になっていく。顔を合わす度に怒られ、殴られたりしたものだ。ほとんど仲が良かったという記憶がないのだ。

私は、ニートやフリーターの言葉が出来始めた頃のその先頭を走るように、経済的な自立などは全くせずに、甘えられるだけ甘えながら、ほとんど家に寄り付かなくなり、友人宅を転々として生活をしていた。

たまに帰る実家は、帰る度に家族の在り方が変化していた。

段々と、じいちゃんや、ばあちゃんは介護が必要になっていく年齢だった。

じいちゃんは、今でいう認知症だった。当時はまだ認知症という言葉はそこまで浸透していなかった気がする。

帰る度に症状が酷くなるのが目に見えて理解出来ていた。

110番にすぐに電話してしまう。
徘徊してしまう。
一日中怒鳴りながら廊下を歩いている。
夜は寝ながら叫んでいる。
戦争の記憶のようなものに、うなされている時もあった。

この頃は、じいちゃんの軀は本当に健康だったので手に負えなかった。当時20歳前後の私と弟達がその軀を押さえようとしても押さえておけないくらいに力のリミッターが解除されていた。

記憶もほとんど失っているのに、力は信じられないくらい強いから本当に危険だった。暴れたら押さえられない。

力の出しどころを自分で考えないので、何をするかわからないという本当の意味の恐怖は、この時に知った。話が通じない恐怖というものは、私が人間を考える転機になった。

ほぼ同時期にばぁちゃんが足を悪くし、ほとんど歩けなくなった。ばあちゃんは悪化していくじいちゃんを完全に知らない人にしていた。嘘でも何でもなく、知らない人にしていた。

じいちゃんの傍にいたくないという気持ちから必然的に弱っていった様にも思えたほどだった。

実家は大変だった。大変だったけど私は私で遊びに夢中で関わりたくないと、たまにしか実家に帰らなかった。弱っていく人間と記憶を失っていく人間というものを感じるのも本当に嫌だった。

ある時、実家に帰ると父が、ばぁちゃんをお風呂に入れてあげて髪を洗ってあげていた。ばあちゃんは、「ありがとう。気持ちいい」って何度も言っていた。

「ありがとう」なんて言葉を涙を浮かべながらばあちゃんが使うのは、今まで聞いたことがなかった。

私は、父になぜそこまでするのかを聞いた。本当に理解出来なかったからだ。

「親に出来なかったからだよ」

父は、本当に普通に答えた。父の両親は父の兄と一緒に田舎で続く家業をしていたが、父の兄がその事業を失敗し離散している。どこに行ったのかもわからないまま時間が過ぎていき、亡くなった連絡だけがきた。

実際には連絡を取り合っていたかどうかはわからない。

「お前もな。兄弟だけは仲良くやれよ」

この頃、よく言われた言葉だ。自分は兄弟仲が悪いクセによく言うわと思って聞いていた。

ばぁちゃんは、寝たきりになり亡くなった。ただその性格はどんどん変化し、涙もろく感謝の言葉を述べる性格になっていた。

その頃じいちゃんは、認知症の悪化からほとんど何もわからなくなっていて、歩くことも小さな一歩を踏み続ける感じで1人では、ほとんど何も出来なくなっていた。

この頃から行動範囲が狭くなり、他の人に暴力を振るうこともなくなってきたので、デイサービスを受けられるようになっていた。

デイサービスも今のように定着してはいなかった。

父は仕事から帰ると、じいちゃんの髪の毛を切ってあげたり、髭を剃ってあげたり、お風呂に入れたりしながらも、時々ワケのわからないことをするじいちゃんに怒鳴って本気で怒ったりもしていた。

母は、食事の手伝い、着替え、オムツの取り替えなど、生きるのに必要な生活のほとんどを介護していた。

じいちゃんとばあちゃんの介護生活は、約10年くらいになると思う。

じいちゃんは、ばあちゃんとは違い、言葉そのものも失っていったが、この頃はよくニコニコと壁に向かって笑っていたのを覚えている。

違うものが見えているようだった。

約10年かけて、人間としてのほぼ全てを忘れていった。そして寝たきりになり、実家で亡くなった。父は、じいちゃんの葬式を実家で執り行った。

「昔に、死んだら家から送ってくれって言われてたから」

と、初めて明かされた。
父とじいちゃんが実際にどういう関係で、どういうやり取りをしていたかなど私は知らないが、

「もう、全部やれることはやったから、本当に何も後悔ない。本人も最後は食べることも忘れて、生きることも忘れたんだろ」

と笑って言う父と母を見て、私はほとんど何も出来なかった自分を悔い恥じたが、同時に救われた気分にもなっていた。

それは、きっともっと協力すれば良かったという罪悪感からなのだろう。だけど私は、これを考える度に自分はなんて都合よく出来ているのかといつも感じる。過ぎたことを悔いている振りだけなのかもしれない。

約10年もあったのに、そのほとんどの時間を自分に費やして、それを自分や家族の問題とは考えなかったからだ。

私が冷酷な人間なのか、家族というものの形が未だによくわからない。

だけど、私の中の父の記憶として父とじいちゃんの姿は鮮明に残っている。私は、父のやさしさを自分の子供達に繋げるのだろうか。

これが私の家族の話になるが、やっぱり結論は出せそうにない。カッコいいことを何も言えずに迷う自分は、結局まだ父の子供なのだと思う。

父は今年で70になり、私は41になる。

父は、今日も母の白髪を染めている。私が知る限り、月に2回を30年近くになると思う。


うりもさん。こちらでは、はじめまして。企画の主旨と違うかも知れませんが家族のことは、ほとんど書かないので過去記事のこちらでよろしければ参加させてください。

誰の企画にも、ほぼ参加しませんが日頃のツッコミご対応の感謝から参加させていただきます。ルールとか何も分からないので、間違ってたらこのままスルーしてください。






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