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そして私は行列に並んだ。
行列に久しぶりに並んだ。待ち時間は一時間以上だという。三列にキレイに整列して並び、誰一人文句も言わずに指示に従っている。知らない人と横に並ぶ不自然さを隠すために、私は先日購入した短編集を鞄から取り出した。
この本の作者は、書くことが好きなのだと伝わってくる。どの短編もとても物語に誠実だ。真っ直ぐに文体に表現される誠実さは、私が書こうにも書けるものではない。ひん曲がった性根の私には、キレイな文章に憧憬しか感じない。それを羨む時期もあったのだが、出来ないことを認めてからは、それを感じることで自分の心が洗われ、素直に心に落とせるようになってきたから不思議だ。
その物語の表現に素直な感情を抱けるようになった。
自分に無いものを認めて心が拡がることは、不思議なものだと思いながら、やはり私は本を読むのをこの先も止められないだろう。
私は、「待つ」という行為が嫌いではない。生き急いでもいないし、その分活字を追いかける時間が訪れて幸せだと感じる方だからだ。
鞄から取り出した私の本を見て、となりに並ぶ老夫婦の会話が聞こえてきた。
「今どき、本を取り出して読むのは珍しいですよね。周りは携帯ばっかり見てるのに」
ご婦人の声は、隣の老人に向けて話しているのだが、私に話しかけているのかと思うほど大きな声で話しているので、
「これ、本の形をした新しい携帯なんです」
と、言いたくなる衝動に、早速自分のひん曲がった性根を見出だしてしまい、私はマスクの下で苦笑いをしていた。
「本か。最近読んでないな。読みたいな」
老人は、ご婦人に呼応するでもなく、まるで独り言のように呟いた。
私は、本を読みたいなと呟く老人を素敵な人だなと思った。私もこれからは呟いてから読むパターンも取り入れようかと考えていた。
「前は何を読まれてたんですか」
という、たった一言を私が隣の老人に言えるのならば、この物語が進むのになと思いつつ、何も言えずに行列だけがゆっくり進んでいた。
「私も本が好きなんですよ」
ご婦人が私の代わりに老人に告げた。
おやおや。どういうことだ。
推理小説が好きな私には、とんでもない展開がやってきたことが瞬時に理解出来た。
この二人。夫婦ではないなと。では、一体なんなのか。私には答えは明白だったのだが、その謎をここで書き記したいとも思わなかった。
私は、この会話に不自然に介入しなくて正解だと思った。もしかしたら、私の本がきっかけでこの物語が進むのではないかと考えていた。老人の恋愛事情に疎い私はこの行列が出来るだけ長く続けと願い、三人横並びでどこまでも進みたいと思いながら、なぜだか頭の中では牛歩戦術の映像が流れだしていた。
「好きな作家はいますか?」
老人がご婦人にそっと切り出した。
「作家を言えるほど多くは読んでいませんよ。あなたはどうですか?」
「大江健三郎、開高健、横光利一、向田邦子、谷崎潤一郎、吉行淳之介、江戸川乱歩、and more!」
と、私は横で叫び自己紹介したい気持ちを必死に抑えた。普段の生活で読書の話などしたことない私は、こんな質問を老年期にされてみたいとすでにドキドキし始めていた。
「私も同じです。どの時代もその作家の良さがありますからね。その当時の気持ちを思い出します。それが良いですよね」
老人はご婦人に応えている。
私は、無粋な自分を恥じた。これからは、安易に好きな作家を女性に答えないと誓った。秘めるべきだと誓った。秘めて明かした方が近くなる気がした。老人の粋な返しに聞き耳を立てている私が、むしろこの二人の読書遍歴を知りたい、教えておくれと心で叫んでいた。
「最近はゆっくりと本を読むという時間が少なくなりましたね」
ご婦人は、またしても私にも話しかけているのではないかと思うほど、私の本を見ながら話している。見られているならば、それに応えるのが私であると心なしかページを捲るスピードを落としゆっくりを心掛けた。
「毎日、何をしているワケではないのですがね」
老人は、哀しみを帯びた声を演出している。
「何もしていないなら読めよ」と言いたくなる衝動に駆られ、またもや無粋になってしまっている自分に私は気付いた。
「今日をきっかけに久しぶりに読もうかしら」
ご婦人は、潤いを帯びた声で誘っている。
とても可愛い台詞だ。そんな台詞を生涯一度で良いから言われてみたいと私は想像しながら、ドキドキしていた。今まで一度も女性に言われたことがないのが残念だが、私が本を取り出したきっかけで本を読むことになるなんて。ご婦人の記憶の片隅に入れてとても光栄です。と心でお礼をしながら、偶然居合わせたご婦人の言葉でもこんなに心がドキドキするならば、もし仮に私がかなりタイプの女性に同じことを言われた瞬間を考えたなら、突発的にかなりタイプの女性に抱きつくことを抑えられる自信がない。今、聞けることが出来て心の準備をすることが出来て良かったと私は感謝していた。
「それは個人の自由ですよ」
老人はきっぱりとご婦人に答えた。
まさかのフリーダムだった。
一緒に読みましょうとか、本屋行きましょうとかではなくフリーダム。ご婦人の方からこんなに誘ってくれているのにフリーダム。
私は、本当の意味でのフリーダムを初めて知った。
男とは、歳を重ねてもアホだと言う話をよく聞いていた。それは、どこか遠い話で実態を持たないものだと考えていた。だが、目の前の老人は想像以上にアホだと思った。
行列に並ぶという目の前のことにしか頭になく、起きている会話に集中することが出来ずにとても大事な瞬間を逃す。
たまたま横に並んだ出会いだが、私もこうして逃してきたのかと生きた教材を目の当たりにして初めて男のアホさを感じたのだ。
これ以上一緒に行列に並ぶのが怖くなった私は、列から逸れた。人生、男と女。色々な物語を本を通して読んできたが、自分が納得出来る物語を何とか私と出会う女性とでこの先の人生で完成させなければならない。頼むから目の前のチャンスにすら気付かないで終えたくない。老人を自分に重ねてはダメだと思っていたが溢れる涙を堪えるのに必死だった。
なんとなく、ただ並んでみたかっただけだと自分に言い聞かせ、本を鞄に入れてもう一度並び直す決心をした。新しく並んだ列で、私はやり直す。そして、今度は自分から会話に参加しようともう一度、本を鞄から見せびらかすように取り出した。
なんのぎょうれつですか
私は、「待つ」という行為が嫌いではない。
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