3/21(日) シンエヴァを観るー回復、対話、パートナシップ
シン・エヴァンゲリオン劇場版を観てきた。この映画の感想を語るには自身のエヴァ史が必須になってくるようだが、何を隠そうアラサーにして、エヴァと私との出会いはたった2年前である。(!)
オタク歴は長く、漫画アニメにはどっぷりと浸かってきたが、「名作とされてはいるが何となく避けている作品」というものが、誰しにも一つや二つはあるだろう。私にとってはそれが「エヴァンゲリオン」シリーズであった。
月額の動画サービスに加入したタイミングと長期的な休みが重なり、重い腰を上げて「いい加減エヴァを観よう」と決意した。観始めてみると息もつかせぬ展開に、TVアニメシリーズ、旧劇場版、新劇場版の序・破・Qを一気に視聴してしまって、良い休みの使い方をしたと思う。
しかしやはり、古くからの予感のとおり、エヴァに熱狂はできなかった。曲がりなりにも希死念慮を抱え、メンタルヘルスの界隈をうろうろしていた私だ。「シンジの周りって、ハラッサー(※)ばっかりだな…。」というのが、大まかな感想だった。
命令に従えば主体性がないと怒られ、従わなければ「幼い」と押さえつけられ、逃げれば「弱い」と謗られる。
嫌な上司の見本。嫌な親の見本。嫌なコミュニティの見本だ。
(もちろん、リアルタイム視聴者組とは違って、放映当時の1990年代といまの感覚のズレもあるだろう。「セクハラ」という単語すら出始めたばかりの年代だった。)
エヴァンゲリオンシリーズでは、ハラッサーがハラッサーであることを誰も気づかないし、誰も諫めない。あらゆることのひずみを14歳の少年に押し付けて、彼の感情を勝手に先取りして解説したり、怒ったり、期待したり、好きになったりする。彼が「辛い」「逃げたい」というのはあまりにも当たり前に感じられて、何故、こんなに責められなければならないのか?という腑に落ちなさが残った。「面白いけれど、あまり惹かれる物語ではない」というのが、エヴァンゲリオンシリーズへのひとまずの感想だった。
だから、シンエヴァについてもある意味期待はしておらず、話題性と、Twitterに流れてくる怪文書が気になって、ふと空いた土日に観に行ってみた、そんな気軽さだったのだ。(この映画を待ち望んでいた人たちからすれば、あまりにも軽率・軽薄なスタイルかもしれない)
しかし予想は裏切られて、心が大いに揺さぶられ、映画視聴後の1分後にはエヴァ好きの知人に「エヴァ、やばくない?」と送ってしまい、その3分後には通話していた。(しかも実に1年ぶりの連絡だった。突然の連絡にも関わらず、知人には感謝している。)
何故、心を揺さぶられたのか? ※以下、ネタバレあり注意※
1.「第三村」での生活の様子
ニアサードインパクトの生存者が寄り集まった「第三村」、これが異常に懐が深く、できた人間たちが集まっているのである。私はむしろここに一番の「創作っぽさ」=ユートピアを感じた。自分のパートナーを「自慢の嫁」だと手放しで褒めて、シンジに衣食住を提供し、「早く村に馴染んでほしい」と願うトウジの素朴な親切さ。一方でケンスケは明らかに「うつ状態の人間」の取り扱いに慣れていて、シンジを心配するでも回復を強制するでもなく、衣食住を与えて遠くから見守る。(ケンカ腰と思われたアスカですら!)
綾波は綾波で、明らかな得体の知れなさでありながらも、村の女性たちは「なんだか事情がありそうだね」と言うだけで、拒絶も深掘りもしない。ただ「働いてくれればよい」という気さくさでもって居場所を提供する。汗を流し、ちょっとしたことを笑い合い、一緒にお風呂に入る。家に帰ればトウジたち家族がいて、「おはよう」「おやすみ」と言い合う。子どもの手に触れ、体温を感じる。
第三村は、人が癒されるのに十分すぎるほど十分な、ケアのコミュニティだ。このような居場所を得られた人は、人を信じ、人に身をゆだね、傷つけられたり失敗したりしても「戻ってくる場所がある」と感じられる人間になるだろう。近くの席の人も序盤中の序盤でびっくりしたかもしれないが、私はこの第三村のシーンで涙が止まらなくなってしまった。
2.対話と回復
第三村での時間を過ごしたシンジは、エヴァンゲリオンに乗ることを決意し、アスカの「あの時なぜ自分が怒ったかわかったか?」という問いにも答えらえれるくらい、落ち着いた対話を見せる。ミサトさんがあんなに冷たかったのは後悔と反省があるから=つまり、シンジに対する思いやりがあったのだと解説される。終盤の対話においてはすべて、誰かが誰かに「完全な理解」を求めたり、「完全な存在」であることを求めるような密着感は、もうない。
シンジはすべての原点である父=ゲンドウとすら、ついに対話を成功させる。ゲンドウはすでに自分の思考の言語化に成功しており、「自分が弱いと認めることができなかった」とこぼす。パーフェクトコミュニケーションだ。追い詰められた、しかも良い年をした成人男性が、自分の人生をこのように丁寧に言語化して、わが子の問いかけに応答することなど全くもって稀な例だろう。これがどれだけ難しいことか。ゲンドウの葛藤も過去も詳しくは分からないが、この言葉を絞り出すまでに至った自省や努力は称賛に値する。
シンエヴァにおいて、すべての人物は回復している。回復しているから、対話が可能である。初めてエヴァを見たときの、「ハラッサーばかりだな…」という感想は消え失せた。
傷ついた人間がいる時、そこに必要なのは正義でも、神話でも、性愛でもなく、回復だ。シンエヴァがそれを見せてくれたことに、私はいたく感動した。
(正味な話、「男性向けのコンテンツではケアとキュアの話にはたどり着かないだろうな」とある種諦めている節があった、その反動=良い意味でのショックもある)
(振り返り)シンエヴァは完璧な物語か?
と、手放しでシンエヴァを称賛したものの、いくつか危うい規範意識もあるため、批判的な見方もしておきたい。
・ハラッサーとは対話すべきか?
エヴァンゲリオンは親不在の子どもたち=アダルトチルドレンたちの物語であり、シンジとゲンドウの関係は今回の劇場版で対話に成功した、とても良い話だったと思う。
しかし、「人間は対話すべきだ」という学びに回収するのは非常に危険だ。「対話」が可能な状態になるためには、傷ついた人間ならば回復が、加害性に気づいていない人間ならばまずは被害者との引きはがしが必要で、それは「愛」や「思いやり」だけで成立することが非常に難しい。
もし、現実に親や上司やパートナーがハラッサーであった場合、あるいは自分がハラッサーだと指摘を受けた場合、必ず第三者や専門機関に介入してもらうべきだろう。「真摯な心で向き合えば」という心持ちだけではどうにもならない、時間をかけて積み上げられたその人たちの個人史や習慣、思考のパターンがある。
・異性愛とモノガミー前提のパートナーシップ
ゲンドウがユイのためだけに全てを放り出せるほどの巨大感情を抱いてしまったのは、ゲンドウにとって、ユイというたった一人の存在が、「世界の象徴」になってしまったからだろう。ユイという梯子を外されると、ゲンドウもまた世界から弾かれてしまう。
その彼の孤独感は、「一人の理解あるパートナー」では拭い去ることができなかった。ゲンドウにはもっと少しずつ、たくさんの居場所が、人間関係が、あったらきっと良かったのだろう。軽口を叩き合う関係性や、同じような悩みを共有できる居場所が、あるいは悲しみや苦しさから一時解放されるような仕事や役割があれば良かった。
そうすれば、ユイがいなくなっても突然、「世界がすべて終わり」にはならなかっただろう。ゲンドウはモノガミー(※)規範としては「たった一人の人を生涯愛した」優秀なパートナーだけれど、彼自身が生きていくには、それはあまりにも"閉じて"いた。
また、終盤では、それぞれのキャラクターたちに何となく「カップリング」が成立していて、それがすべて(おそらく)異性愛前提であることも、ややもの悲しさが残った。
異性愛者のパートナーが「良き理解者」である必要はなく、そもそも人との親密さや信頼関係に性愛を前提にする必要はなく、「異性とカップリングする」ことが「現実」ではない、ということは添えておきたい。(もちろん、第三村のようなコミュニティの描写はあったものの)
・作中に散りばめられる「現実に戻れ」というメッセージ
私は生身の人間との交流、対話を好む性質のためシンエヴァ全体はかなり共感し、好意的に見ることができた。しかし、それは私の性質の話であって、私が「大人である」とか「成長している」というのとは別軸の話だろう。(コミュニティに所属し、他人と共存をしながら、なおかつ「未熟」と呼ばれるような振る舞い=人を傷つけ、自分の都合を押し通し、自己を顧みない、が両立している人間はたくさんいる。)
そもそも、「現実」とは何か。SNSは向こう側に人間がいるし、「現実」である。「創作物」も誰かが作り出したものを吸収するという現実である。「頭の中の空想」もまた、空想しているという状態含め現実である。
何をもって「現実」とし、何をもって「現実じゃない(逃げている)」とするか。その分断を可能にするのは規範と権力だ。
アセクシュアル/アロマンティック(※)やフィクトセクシュアル/フィクトロマンティック(※)への緩やかな排除に関しては、異議を唱えたい。
また、ゲンドウの言う「すべての魂を一つにして、個体としての自我を失う」こともまた、必ずしも現実逃避ではない。
シンエヴァを取り巻く熱狂も同じで、「一体感」や「共同体感覚」などは「個体としての自我を失う」快楽そのものだろう。誰かとシンパシーを感じることは気持ちが良い。祝祭といった非日常、お酒を飲んで酩酊した時の開放感、コミュニティのメンバーと目標を達成した時の一体感、スポーツやセックスで自他との境界が溶け合う感覚を味わうこともあるだろう。
「個体としての自我」は時に失うくらいが心地良く、それが「社会性だ」と取り沙汰されることもある。
つまりそれくらい、「現実規範」なんてものは移ろい、揺らぐ、不定形なものなのだ。たまたまそれを、時代に合わせて上手く行き来できる個体がいるかもしれないが、それはその個体の性質であり、「優」や「劣」ではない。私たちはそれを振りかざして、他者の尊厳を踏みにじるべきではない。
…と、長くなってしまったが取り急ぎこういうのは熱量のあるうちに。ということで、投稿しておく。
文中にところどころ出てきたセクシュアルなどの単語の定義は簡単なメモ書き程度しか触れていないため、もし気になった方がいれば、自分で調べてみるのもオススメする。