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あたいを推してくれていた人が、あたいのアンチになっちゃった。


 今回の記事では、あたいを推してくれていた(ファンとして積極的に応援してくれていた)フォロワーさんが、あたいの発信を見ているうちにあたいを嫌いになって、アンチになってしまったお話をする。

 いや正しく言えば、あたいが『アンチにさせてしまった』のだと思う。

 その子からもらった最後のメッセージには、あたいの著作数冊をお風呂場で燃やしている動画が添付されていた。あたいのせいで燃えたのは本だけじゃなくて、その子の心の方もだろうなと感じた。 

 あたいは、人に好かれたいという気持ちはあっても、嫌われたくないという気持ちはそこまでない。だけどあたいを好きだった人をわざわざ嫌いにさせてしまったことには、悲しさを覚えている。


 まず前提の話だけど、あたいの発信はけっこう鼻につく。
 ずっとネットで活動してるけど、あたいのスタンスはネットでインフルエンサーを気取るには向いていないかもしれない。

 というのも、ネットの匿名掲示板など、殺伐としたアンダーグラウンドに長く親しんできた人ほどリアリスト(現実主義者)で、あたいのふわふわした活動方針と一見相性が悪いからだ。

 ネットにおける匿名リアリストの方々は、世の中の争いを俯瞰的に見て冷笑できるくらいには怜悧でなおかつ厭世家だ。だから、お馬鹿なあたいの綺麗事や理想論なんてものは鼻で笑える戯れ言に見えるだろうし、あたいのアドバイスを装った説教がましい人生訓にはほとほと嫌気が差すとも思う。

 実際、あたいは社会経験に乏しく、いい歳のおっさんのわりにまだ精神的に未熟だ。ここまでだって他人のおかげで生き延びてきただけの人間なので、人に敬われるほど立派でも何でもない。

 そしてたくさんのどうしようもならない現実に直面してきたくせに、それでも根性論のような前向きな精神論をのたまうので、シニカルなリアリストにはあたいが頭お花畑の人間に見えていることだろう。実際あたいの頭にはお花が広がっていて、景勝地として多くの人に愛されている。この季節はすけべコスモスが見頃だヨ💕


 また、アンチにまで至らなくとも、あたいに好感を覚えない人からは「フォロワーが多いからって偉そう」とも言われたりもするが、フォロワー数の多寡は人のステータスでも何でもないとあたいも思う。多ければ多いほどいろんな人と絡めるので、多いに越したことはないけど、べつに多くとも人間は偉くはならん。

 それでもあたいが偉そうに見えるのなら、それはそもそもあたいが生来のお調子者だからなのである。あたいが偉そうになんか言ってる時は、あたいの調子乗りな部分が悪い形で出ているだけなのだ。

 なので「偉そうになに言ってんだ。そんなこと言える人間じゃ無いくせに。しょせん風俗上がりのただの馬鹿なゲイが〜」といったような批判にも、元気な時に耳を傾けなきゃなぁ〜って自戒したりするけども、でも実は、あたいは自分のそういう図に乗りがちな小物感をあんまり直そうとも思っていない。良くも悪くも調子乗りだからこそ生きてこられたのかなとも思っているからだ。

 また、あたいが人に向かって説く言葉は、自分にも言い聞かせて奮い立てているようなところがある。あたいは誰かに「強く生きろ」と偉そうに言うとき、あたい自身もその言葉を放つに見合うくらい強い人間になれるように努力していけばいいや〜って思っちゃうタイプの、無責任な隣人だ。

 そういった《反省をしてもこたえないところ》も、謝罪動画や活動休止・発売停止を求めたり、有名人に引退や頭髪の丸刈りを求めるような《過度に懲罰的な人》たちにはウケが悪い。つまりあたいはパワハラ気質の上司や教師に嫌われるタイプってこと。うふふ❤️上等だよ。


 ましてや、あたいが鼻につく原因は、ゲイバーで店子(従業員)として働いていた時からそうだったけれど、《いつだって明るくてウィットに溢れる相談役のオカマ》という前時代的なキャラクターを若干演じている節があるからだろう。

 心が弱った人が窮地に必要とするのは、自信に満ち溢れた強い人間だったりする。だからあたいはせめてお客さんの前だけでは根拠の無い自信でもいいから、強く、聡くあろうとしていた。それはTwitterを始めてからもそうだった。

 人を頼れない人は「自分なんかが相談して愚痴を吐いたら迷惑かな」って考えていたりする。なのであたいが強いオカマってものになれば「この人は気丈夫で強いから頼っても大丈夫だ」という《前向きな偏見》を強化してもらえるだろうといった算段だった。つまり言い訳がましいけれど、あたいが自信に満ち溢れているのは美しいからだけじゃなく、「相手の負担にならないように立ち回りたい」という、あたい自身に課したスタンスではあった。

 でも実際は、エッセイの作風や発信からも垣間見えるように、あたいはそこそこネガティブでしょーもない嘘つきで性格がわりかしひねくれている。だからこそ作家になれたんだろうけれども、インフルエンサーのような立派で憧れられるようなイメージからはあまりにも乖離している。

 有り体に言えばあたいは人が好きだけど、自分が苦手で。接客業は好きだけど、根明じゃないような、自身の中で理想と悲観が相反する不完全な人間だった。なので《卓越したオカマキャラ》という《不完全を装った完璧なもの》をあたいの不相応な実力や身の程で演じれば、すぐに世間知らずな高慢ちきだとバレるのだけれども。

 でもその矛盾と自己葛藤、そしてそれでもキャラクターを演じる直向きさすらも、あたいの良さなんだと開き直ってすらいる。あたいはまだ人間として完成していないが、現在進行形で理想に向かうただの美しい挑戦者なのだ。

 そんなあたいに、匿名掲示板や匿名SNSで憩うリアリストの中でも《自分が弱者だと自覚している卑屈なネット民》ほど「こいつ(もちぎ)は実は根暗な厭世家だ」とシンパシーを感じて同類だと思ってくれていることもある。

 なのに、それでもあたいが頑なに「あたいはすごい。だからあたいの発信についてきなぁ!」というヤケクソポジティブな活動を続けているので、そこに嫌悪感や共感性羞恥心を抱くのも仕方ないと思う。ややもすると尊大な虚勢と誇張に見えて、気持ちが悪いのだろう。あたいもあたい自身のことは好きだけど、あたいみたいな人間は痛々しいし不出来なところに目が行ってしまうと思う。だからそういう嫌悪感すらも《分かる》。

 ネット民とあたいはおそらく同族ではある。根幹には生まれを呪って、人を羨み、根拠の無い自信だけを頼りに生きて、自尊心が傷つくことだけを恐れる強かな弱さがある。ただしあたいはそんな彼らに《同族だから嫌悪される》のではなく、《同族であるのに関わらず周りから不相応な評価や称賛をされている》という差異を感じられているので、強いバッシングと執着を受けることがあるのだろう。

 同族なのに不均衡ーーそんな時にこそ同族嫌悪は発生するのだ。その点で言えば、あたいの差異は、実力が無いにも関わらず、注目や応援される機会に恵まれたことだ。あたいはほんとフォロワーさんや評価してくれる人に巡り会えたんだと思う。綺麗事でも謙遜でもなく、ただそれだけの違いだと考えている。

 あたいも人に恵まれなければ、まだずっとゲイ風俗に在籍して、どこかで燻りながら、風俗の批評掲示板で匿名の立場から、自分の許せない同類だと思う人間をこき下ろしていたかもしれない。もちろんこれはあたいを批判する人間が燻った人生を過ごしている人間だと断ずるわけではない。ただあたいがそういう辛うじて前を向けているだけの弱い人間だということを改めてここで表明しておきたいのだ。


 同族嫌悪の話をしたが、つまり、これを原因だと捉えるのはあまりにも好意を無下にするような言い振りになるのでしたくはないが、アンチの方がその感情をあたいに捧げてくれるのは、ただフォロワー数の多寡だけじゃなくて、あたいを《推してくれるほど応援するファンの人がいること》も要因となっているのだと思う。

 あたいがただの路傍の石なら誰も批判はしないだろう。けどその石ころに絶賛や称賛の声があれば、「ちょっと待て」と否定の声は集まる。なんせ称賛の声があれば、自身の「これのどこがいいんだ?」という価値観が否定され無視されているように感じるからだ。そして「その石は評価されているけれど、ただの石だ。自分はただの石だと気づいていた。ただの石を有り難がる馬鹿な信者め」とこき下ろしたくなるのだ。

 もちろん何かを応援してくれている人はこの摂理を気に病むこともない。周りを気にせずに好きな時に応援したり、コンテンツを気楽に気軽に楽しんでいって欲しい。そしてあたい自身はあたいのことを好きだと言ってくれている人のために誇れるような仕事や活動をしたいと思う。

 けれどその反面、アンチ意見を持つ人がもし同族嫌悪である場合は、あたいを推してくれている人やフォロワーがいることであたいの価値が上がっているわけじゃないんだから、もっとあたいに「有名になろうがこいつもダメなやつだな」ってエンパシー(共感)して冷めた目で気安く楽しめたらいいのに、とも思う。まぁこれは人と機会に恵まれたあたいが言うと無責任だし、あたい自身が言えば自己保身にしかならないのだけれども。


 ここまであたいのアンチのことを少し語った。それでもおそらく「いいや私はアンチだけどもちぎと同族なんかじゃない」と主張する人が多いだろうけれど、世の中にはたくさんダメな人間がいるのに、わざわざダメな人間の中からダメなあたいを見つけて嫌いになった人は、何か自分に共通して感じられる要素や、無視できないポイントがあたいの中にあったんだと思う。自分の人生や価値観に関わる自分事の要素が。なのであたいはやはりアンチとはあたいと同族だと再度仮定する。

 反対にあたいを推してくれている人は、あたいの胡散臭いヤケクソポジティブであっても、その光に救いを見出して憧れたり感銘を受けた結果、推してくれていることが多い。あたいのヤケクソポジティブはとことん人のダメさを肯定する甘えでもあるので、魅力的に見える人もいてくれるのだ。

 ただ、そこに救いや共感を得る人は、きっと心が弱った状態だったり、傷の痛みを知る人であったり、過去や現状に希望を持てないがそれでも前を向いていきたいと、かろうじて考えることができたギリギリのところにいる人なんだと思う。

 だからあたいの《悲しくも現実的でありながら、結論はポジティブに導くような希望的なオチのある発信》に対して共感したり、同じ立場の人間として勇気をもらったというようなこともあるのだろう。あたいも実はリアリスト(現実主義者)だけど、それでもかろうじて夢やポジティブが生む前向きな効用も信じたいと思っている弱い夢想家なのだ。

 あとは仮にあたいと境遇や共感要素がまったく重ならなくとも、だからこそ「どこか遠くの誰かであるもちぎの生き様」が物語として他人の心に光を差すこともあるのだろう。映画や小説や絵画が人の心を救うように、どこかの誰かのエッセイや生き様が無関係な人間の救いになることだって、もちろんある。


 だけどそれが危うい陶酔になることもある。

 弱った心や、弱い人間にとって救いは依存にもなることがあるし、期待通りの救いが得られなかった時に攻撃の対象となってしまうことだってあるだろう。被害者や傷ついた人がどうしようもなく追い詰められた時、その矛先を向けるのは《その人を傷つけた人》ではなく《その人を救ってくれなかった人》になりがちなのは、傷ついた人を見てきた方なら納得してもらえるだろう。

 あたいはそういう人の弱さも肯定というか理解したいと考えるので、だからこそ「教祖みたい」と批判されることもある。アンチの人があたいの意見に共鳴する人を「もちぎ教に入信している馬鹿な信者だ」と言って攻撃していることを見かけたこともあった。確かに冷静な状態を欠いてあたいを神格化している人がいたとして、その状態を《カルト(≠宗教)》と形容したのはなんか言い得て妙だなぁと感心したりした。

 人に依存すること、推しとして期待することは誰もが大なり小なり行っていることなので、それは批判しないし笑わないし止められないことだと思うけど、なんでもそうだけど加減が必要だなぁと思う。あたいも人から依存されてまで褒められたり承認されたいと思わない。元気な人間が、あるいは元気になった人間がふとした時にあたいの発信を思い出してくれたら、それでいい。

 もちろんこんなこと言えるのも、あたいがいろんな人や場所に小さく依存して、心の拠り所を分散している人間だからだ。人によっては広く浅くの八方美人で冷たい人間に見るかもしれない。現にあたいは大切な人や居場所はたくさんあるけれど、人生の大部分を割く推しという存在がいない。そんな心の拠り所を作った経験も無い。あたいがかつて働いていたゲイバーが潰れたとしても、それでも商売なら仕方ないことだし、生きていればいつだって会えると前向きに捉えてしまう。

 そんなあたいだから無責任な感想になっちゃうけれど、人生の大部分を占めるものが急に失せたら、心を支える大きな柱が折れてしまったら、めっちゃ辛いだろうし、極端に言えばそりゃ死にたくもなるよな。ぶっちゃけまだその心情が分からんけど、きっとあたいも分かるようになるだろうとは思う。


 だからあたいは、はなからアンチとして攻撃的に近づいて来られるより、最初は好意を持ってくれたいた人が一転してそういう状態に陥ってしまうのは、嫌われる側のあたいも心苦しいと感じてしまう。

 アンチには「執着する気持ちは分かるけど、お互いどん底で、あたいだって自分がダメ人間だって本当は自覚してるよ」ってスタンスだけど、ファンから嫌いにさせてしまった時は「せっかくの楽しみをあたい自身が奪ってしまってごめんね」と申し訳なくなる。

 どちらにせよ人を嫌うのはとても気力が必要なことだから、生きていれば誰かから嫌われることは仕方ないと割り切っているけれど、できる限りあたいから嫌われるような原因を作ることは避けたいとは思う。


 だけど今回、ファンがアンチになるのを目の当たりにした。

 もちろんそういうことはフォロワー数の増減の裏にたくさん起きているだろう。けれど、そうなってしまうの経緯を間近で見届けてしまい、あたいはびっくりしちゃった。希望から絶望に移り変わるその様は、人の心の暗転を対岸の火事として見届けた罪悪感に近い。そのことをあたいは後悔と反省半分、残り半分は巡り合わせや仕方ないことだと割り切っている。

 いや、対岸の火事だと言うのも憚られる。確かにその子の心はその子自身のせいで燃えやすい枯れた原っぱになっていたかもしれないけれど、そこに火種を送り込んだのは、あたいの言葉なのだから。

 だからこそ、あたいはそれをここに描きたい。

 ファンになって推してくれているほど好きになってくれるだけに、その期待や愛の大きさが憎さに変換されてしまった時の強烈さを、ここでは具体的な名前や経緯を伏せつつも書き残す。

 また「そういうことすら記事のネタにすんのか」という批判も甘んじて受け止めたい。エッセイ作家はそういう批判だけは無視してはならないからだ。



 ここから、アンチになったその子の話をしたい。

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ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…

今ならあたいの投げキッス付きよ👄