ゲームがしたい
後悔先に立たず
ここ10年程の
年齢不相応に少ないゲーム歴の中で
何度も「サ終」を経験してきた。
いつもいつも「もっと遊んでおくんだった」と思ってきた。
満足するまで遊べたことは、無い。
スマホゲームに限らずゲーム全般がそうで、
はるか昔に唯一全面をクリアしたパッケージゲームも、楽しいやり込み要素を残したままになっているし、続編にも手を出せていない。
自分はゲームを「する」のが不得意だ。
習慣がないため、生活の中でいつどんなタイミングで始めたらよいのか分からない。
幼い頃に諸事情でゲームを持っていなかったため
暮らしの中で、ゲームをするための余白を設けるクセがついていないのだ。
本を読む習慣のない人というのも、きっと同じような感じなのだろう。
本を読むときは、さぁ読むぞと思って生活して、時間を作り、読んでいる。と思っている。
これをゲームにも応用しようとしたのだが、なぜか難しい。
ほとんどのゲームはインプットだけでなくアウトプットをする必要があるため
より「能動的」なモードにならなければならず、
うつ病を抱えていると日々「億劫」との闘いになるので
そこのところがハンディキャップになっているような気がする。
実際は寝っ転がってでもできるような難易度のゲームを
慣れている人なら1日でメイン要素を全クリしてしまうような子供向けのゲームでも
何ヶ月も何年間も「積みゲー」してしまう日々だ。
右も左も分からない場合
思うに、自分はゲームシステムを事前にどれくらい知っているかというのも「取り掛かりやすさ」に差が出るように思う。
ネタバレを気にしないので、気になるゲームはYouTubeで実況を観てしまったほうが取り掛かれるのかもしれない(たとえ結末を知ってもたいていはプレイしたいという欲は消えない。そこは自分の生来の好奇心の強さが失われず残っているように思う)。
今度試してみよう。
何しろ「不透明なタスクを不透明なまま処理する方法を持たず、意識的にタスクを分解しないことには何でもかんでも大きくて不透明なタスクに見えてしまい、完遂のビジョンが持てず、怯えるなどして取り掛かりが難しい(脳だけでは処理落ちするため紙に書き出すなど補助が必要)」というのが
ADHDの先延ばし癖の主な原因と言われている。
未知のゲームになかなか取りかかれないのもさもありなんである。
既プレイの場合
では「一度始めてすっかりやり方を把握しているスマホゲームを続けられなくなくなった」に関してはどうすればよいか。
これまたADHDの特性が悪さをしているように思う。
ルーチンワークをこなすことや
習慣化というのが常人より輪をかけて苦手なのだ。
ソシャゲと呼ばれる類のスマホゲーには、デイリーミッションというものがある。
これが億劫になってしまう。
よくADHDは飽きっぽいと言われるが
自分の場合「飽き」と「億劫」には明確な違いがある。
習慣化したいタスクの殆どは「億劫」が故にうまくいかない。
この「億劫」が具体的にどんなものかと言うと
どうも「学習性無力感」なのではないかと思っている。
わかりやすい「報酬」がない限りは
成果を得られた気がしない、という感覚。
例えば歯磨きや風呂は「行っても行っても終わりが来ない」ことが分かってしまっている。
つまり「やっても無駄かのように感じてしまった」ら最後、とんでもなく心理的ハードルが高くなるのだ。
スマホゲーのデイリーミッションは今日やっても明日リセットされる。
タスクは前日と全く同じことを要求される。
「やるべきことにも得られる報酬にもこれといって変化がない」場合
「行動が報われてる感じがしない・報われるビジョンが見えない」せいで耐えられない。
推しが居ても耐えられないのだからよっぽどの耐性の無さである。
あるいは推しへの熱量(パッション)は常に人並み以下で、
モチベーションが全く足りてないのかもしれない。これはまた別件で語らないと長くなってしまうので一旦傍に置いておく。
風呂や歯磨きに関しては「自己愛を構築・強化するとQOLが上がる」という報酬を信じることにより、この頃なんとかやっていけるようになってきた。
(もし鬱が再び悪化して自暴自棄になってしまったらできなくなってしまうが、そうならないように多重の対策をしているため余程のことがない限り繰り返さないはずである)
推しを推すこともまた、「推しのことを好きな自分を許容し、大切にする」という要素があるように思う。
そう考えると、
「ゲームがしたい自分を尊重しよう!と意識する」
こともまた必須なのかもしれない。
考えてみれば「本を読むことは良いことだ」と刷り込まれて育ったので
本を読む・読みたい自分に否定的になったことなど一度もない。
ゲームを楽しむことに後ろめたさを感じていないと言ったら嘘になる。なぜなら現在無職だからだ。これも原因だろう。
かつて唯一全面をクリアしたときは小学6年生だった。後ろめたさがなかったから最後まで取り組めたのかもしれない。
思い返せばその後の中学高校時代は「勉強が仕事で、仕事しないのは悪いことで、娯楽にうつつを抜かしてはならない」みたいな価値観に染まってしまっていた。
芯まで染まっていたのでなかなか色が抜けないでいる。
勤勉なのは美徳とされるが、メンタルの栄養補給が大事なこととは教わらず、しかしサブカル脳のため隠れてコソコソと摂取し、常に物足りない飢えた生活を続けるとどうなるかというと、まぁ壊れる。
それが自分である。
何事もバランスが大事だと思う。
これから
少しずつ、少しずつ、
「自分の好きなこと」を再開していけたらと思う。
noteもその一つである。
──おしまい──