共に一夜を明かした男の話
その日は家に帰りたくなかった。
ラストオーダーです、と告げられ店を出た後、まだ飲むの?どうするの?と聞かれて、飲みたくないけど帰りたくない、と酔いに任せて駄々をこねていたように思う。
当時私も元上司の男性も無職だったから、時間の制約がないことをよいことに好き放題言っていた。
それなら、と少し歩いて辿り着いたのは24時間営業の角地のコーヒーショップ。
店内に客はほとんど居なかった。
無性に甘いものが食べたくなり、夜中の2時には不釣り合いなパフェを頼んだ。
私がパフェを平らげていく様を、彼はアイスコーヒーを飲みながらぼんやり眺めていたように思う。
今思うと彼もそれなりに酔って、そして疲れていたのだろう。
「結婚したくないの?」
「もちろんしたいですよ。」
「それなら一度しておいたらいいよ。あまり深く考えないでお試し感覚で。嫌になったら別れればいいし。俺は奥さんと何で別れたのか今でも分からないけどね。」
寡黙な彼が自分語りをするなんて珍しい、と興味津々に聞いていた。
彼はこちらに目線を向けながらも私の後ろの景色を説明しているかのように、ポツリポツリと饒舌になっていった。
そして今まであまり聞いたことがなかった、彼の子供の話をし始めた。
「上の娘がね、突然校庭の砂を食べ出したりしておかしくなってしまってね。まるで狐に取り憑かれたような。本人に聞いてみると俺でも知らないような戦争の話をずっとしていたり。下の子たちがそれを見て怯えてしまってね。誰に見てもらっても手の打ちようがなくてね。」
今更酔いが回っているのか、私に面倒な男と思わせて帰らせようとしているのか、現実かどうか定かではない話をゆっくりと捲し立てた。
「歳も君とそんなに変わらないのにね。人生で一番楽しい時期なのにもったいないなあ、ってね。」
主語が曖昧になっていく彼の話に五感が引きずられて、舌の上のパフェは味がなくなっていた。
「せっかく家も買ったのにね。当たり前なんだけど帰っても電気が点いていなくて真っ暗でね。どうして誰も居なくなったのか、よく分からなくて。」
どうして彼が私みたいな夜中にパフェを食べたいと言い出す小娘に付き合ってくれているのか、少しずつ分かり始めていた。
ひとつだけ確かなのは、彼も家に帰りたくない、ということだ。
その点では私と一緒だった。
不意にコーヒーショップの外に目をやると、空が白んでいるどころか、道路に日差しが入り込み始めていた。
季節はもう夏そのものだった。
「結構明るくなってきたね。たくさん話していたらさすがに眠たくなってきたよ。もうそろそろ帰れそう?」
熱を帯びていた先ほどまでの彼の口調は、ふわっと出したあくびと共に消えていた。
「徹夜までさせてしまってすいません。もう始発が出ているので帰ります。」
途中から酔いが覚めて頭ははっきりしていたはずなのに、帰りたくなかった理由が思い出せなくなっていた。
「またご飯にでも行こうよ。まだまだ暇してるし、いつでもいいから。今度は俺もパフェ食べようかな。」
それ以来、彼に会うことはなかった。
会うどころか連絡すら取らなくなってしまった。
彼のことが怖くなったからとかではない。
特に何の理由もない。
理由として挙げるなら、ちゃんと家に帰って眠る生活が出来る様になったことだろう。
彼から連絡がないことが、彼にとって良いことだと願っている。