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評価されるということ
“本能のなれ果てに生まれ、
まして歓迎もされず、
惰性の愛に手をひかれ、
行き着く場所は底無しの崖っぷち。
選べない日々を押しつけられ、
ぐずることも許されず、
自由になるための約束は、
抜け殻になった夢物語。
堕ちることで狂喜を得られたのなら、
ここで味わう不甲斐ない孤独は、
正気と明日を掴む試練なんだと、
いつか出会う未来にささやいてほしい。”
この支離滅裂な文章はなんですか?
と言いたくなりますね。
およそ15年前、某出版社が作家の募集をかけていた時に応募した私の詩文です。
今見ると書き直ししたくて堪らなくなっています。
この一文は、募集をたまたま見て気まぐれで応募したところ、出版社より『弊社の詩集に掲載しますのでよろしく』と返事があり、見ず知らずの人たちの作品と共に一冊の本の1ページになりました。
当時、アダルトチルドレン由来の自己肯定感の無さに苛まれていた私にとって、詩作はそのやりきれなさを宥める唯一の方法で、自由そのものでした。
ただ、書けば書くほど陳腐で下らなくてどこかで見た二番煎じに思えてきて、いつの間にか詩作をやめていました。
そんな中での応募は、自分にどれくらいの力量があるのかを試すことでもありました。
そしてその結果、企画本のページ埋めであったとしても、自分が生み出した作品が一定の評価をされて形になることは素直に喜ばしいことでした。
それと同時に『寄せ集めの本の1ページ程度だったか』と現実を思い知らされました。
それ以来、本格的に詩作をやめました。
趣味ならそのまま続けていても良かったものの、心の片隅にいた『自分自身が生み出したものを他者に認めてもらいたかった自分』がはっきりと現れてしまい、それが異様に気恥ずかしくなりました。
その気恥ずかしさと共に、自分が作ったものを評価されることがどれほどの喜びとダメージを受けるのかを思い知りました。
そこから、評価されること=自分を曝け出すこと=生半可に行ってはいけないこと、に認識が変わっていきました。
趣味ならもっと気楽に考えればいいのに!とも思いますが、それだけ当時は自分が思っている以上に心血を注ぎ込んでいました。
今でも添え物程度の詩を書くことはありますが、メインとして書くことには抵抗があります。
でもいつかは、伸び伸びと自分の好きな言葉を綴っていけたら、という願い?を込めて、このnoteでリハビリ的に文章を書くことにしました。
どこまで続きますでしょうか。
近年飽きっぽくなったので、のらりくらりとでも書いていければ上々、というスタンスで参ります。