風評 加害と被害
加藤文宏
──寺田寅彦は「流言蜚語」で次のように書いた。
風評は漠然と発生しない
ある中華料理店の被害
風評は噂であったり、人々の間で交わされる話題だ。
この風評が原因で発生する被害いわゆる「風評被害」は、長らく漠然とした現象によってもたらされる出来事とされていた。
「あの店は、靴を履いた足で鶏ガラを鍋に押し込んでからスープを取っている」と悪い噂が立って、客足が遠のいた中華料理店が筆者の身近にあった。事実ではない噂が原因であるから、まさに風評被害だ。多くの人は噂の出どころを知らず、どこからともなく漂ってきた「靴を履いた足」の話題で、この店で食事をしたくないと感じた。
店主は「嘘をついているのは、どこのどいつだ」と憤慨していた。店主は自らを被害者、嘘を吹聴した者を加害者と意識していたことになる。
噂は自然発生しないので、風評被害には加害者がいるとみた店主の考えかたは正しい。
どこから加害者なのか
最初に「靴を履いた足で鶏ガラを鍋に押し込んでいる」と言い出した者がいる。この人物はあきらかに加害者だ。
彼を仮にAとしよう。Aから作り話を聞いて別の誰かに伝えたB、C、Dがいた。さらにAを知らないものの、B、C、Dから噂を聞いて吹聴したE、F、G、H、I、J、K、L……らがいた。そしてさらに多くの人々が「靴を履いた足」の風評を拡大させた。
発端はAであるが、B以下の人々もまた中華料理店に被害をもたらした風評をかたちづくっていた風評加害者である。
B以下の者たちは「信じきってしまった」とか、「不安になったから、食べないように知人に伝えた」と言うかもしれない。しかし伝聞を一方的に受け入れて、落ち度のない中華料理店に被害を与えたのだから、風評への関与の度合いによって責任の程度に濃淡があるだけで、加害者であることに違いはない。
モチーフがあってもAが噂を立てなければ
Aは「店主の調理服が真っ白だったことがなく汚れて見えたので、そういうこともありそうだと靴と鶏ガラの話をした」と言い出すかもしれない。世間でとりざたされることになった「靴を履いた足」のモチーフが店主自身であり、風評が広がったのも、風評被害を受けたのも店主の責任という抗弁だ。
だが店主の調理服が汚れて見えたとしても、Aが噂を立てなければ風評もまた発生しなかったのである。
そして原発事故へ
ある中華料理店が被った風評被害を例にして、風評加害について説明した。これは原子力発電所事故に端を発した、さまざまな風評被害にも当てはまる(図1)。
事故発生以来、鼻血、先天性異常の子が生まれている、異様に高い放射線量の報告など不確かであったり嘘が吹聴されたほか、生産者は殺人者など讒言が広がった。
「不安だった」「注意をよびかけるためだった」などの理由や、デマ拡散を意図して吹聴したものではないという立場があったとしても、風評をかたちづくり、買い控えや福島県忌避など被害を生じさせたなら風評加害である。因果関係のうえで、加害者だということだ。
風評のモチーフは原発事故であり、国であり、東電だった。モチーフがあっても、風評を立てる者がいなければ風評は発生しない。繰り返すが、風評は自然発生するのではなく、風評を立てる者がいて発生する。
茨城県産のほうれん草、福島県産の原乳から暫定規制値を超えるヨウ素が検出されたことがあった。このとき同品を売り場から撤去することは加害行為ではない。しかし、規制値をクリアしている産品にまで不安を感じさせる言動によって、影響が現れるなら風評加害だ。
当時「いっさい福島産は置いていません」と貼り紙を掲示した店舗があった。放射線量が規制値内であっても店頭から産品を追い出していて、こうしなければ安全安心が守れないと伝えているのだから、これは風評加害であったり、風評加害に加担したり助長した行為といえる。
思うことと言葉にすることの違い
風評加害者と指摘されると、内心の自由、表現の自由を根拠に反論する者がいる。
内心に従ってどのように行動しようとも、法に触れず、場のルールを逸脱しないなら誰にも止める権利はない。福島県を忌避したり、福島産の産品を買わない自由がある。そもそも内心で何を思おうと他人にはわからないのだから、これだけでは風評は発生しない。
では風評を立てたり、拡散させる発言は、表現の自由によって制限されることがないのか。
表現の自由の限界を示す判断基準に「明白かつ現在の危険」がある。表現の自由は無制限ではない。
「明白かつ現在の危険」では、
1.ある表現行為が近い将来、ある実質的害悪をひき起こす蓋然性が明白であること。
2.その実質的害悪がきわめて重大であり、その重大な害悪の発生が時間的に切迫していること。
3.当該規制手段が右害悪を避けるのに必要不可欠であること。
以上3要件の存在が論証されて、当該表現行為を規制することができるとされる。
もし3要件を完全に満たさなかったとしても発言は批判される。
内心で思うことと言葉や文字で表現するのでは大きな違いがあり、表現の自由が無制限ではないことは、関東大震災時に発生した虐殺事件の経緯を振り返れば自明である(図2)。
虐殺事件は「朝鮮人が井戸に毒を入れて回っている」とする風評から発生した。
ただし、内心で「朝鮮人は、なんか嫌」などと考えるのみなら風評は立たなかった。新聞が書き立て、人々が口々に言い合ったことで風評は虐殺に発展した。現代において、同様の風評が語られたら「明白かつ現在の危険」の観点から厳しく規制されることだろう。
いっぽう、「朝鮮人が井戸に毒を入れて回っている」と「福島の野菜や魚介は放射能で汚染されている」は意図も意味も違うと言う者がいる。福島第一原発事故は未曾有の原子力災害で、どのような影響が現れるかわからないのだから警告するのは当然だとする主張だ。
曲解された予防原則
これまで経験のない新技術に対して、環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす仮説上の恐れがある場合、科学的に因果関係が十分証明されない状況でも、規制措置が可能であるとするのが「予防原則」の考え方だ。
そして「予防原則」に則って、福島第一原発事故は未曾有で、未経験の事故で、発生した事態と対処も未経験であるから、食品の危険性を警告したり、ALPS処理水の海洋放出を許してはならないと主張するのは、表現の如何を問わず妥当だとする意見がある。このため風評が立ったとしても、立てることになっても、何ら問題ないという姿勢だ。
だが、予防原則は前述の「明白かつ現在の危険」のように普及して普遍化した概念ではない。予防原則を採用する場合は「疑わしきはすべて禁止」や「疑わしきは罰する」になりかねないため、定義と運用を慎重にしなければならないとされている。
こうした前提を無視する以外にも「予防原則」を濫用する傾向が見られる。
[対象の恣意的選択]。例「政治や運動の都合によって対象が決定される。処理水放出を予防原則の立場から反対する。だが最悪の事態を予防しなければならないはずの、人類が未経験な廃棄太陽光パネルの大量処理問題には触れず、むしろ太陽光発電推奨の主張をする」
[科学的な事実の無視]。例「放出する処理水について科学的に説明され、懸念が払拭されているにもかかわらず、疑わしきはすべて禁止の姿勢を崩さない」
[感情論への転化]。例「科学的な事実を無視したり理解を拒否することで、疑わしきものを忌避する理由は感情以外の何ものでもなくなる」
この三点を頭に入れて、冒頭で紹介した寺田寅彦「流言蜚語」の別の箇所を読んでもらいたい。
原発事故の影響と、ALPS処理水について、寺田の「井戸と毒薬と計画の関係」のように科学的な説明が尽くされて、安全であることがわかっているのだから、「予防原則」を言い張るのはおかしい。これはもう、「何をするかわからないから朝鮮人を殺すほかない」と予防行動を取った非論理的な自警団の人々と変わらないではないか。
まとめ
原発事故以後、語られた風評はさまざまなものがあった。
このうち「福島県の野菜や魚介は放射能に汚染されているから食べてはいけない」という風評は、福島県への風評の基本骨格として一貫している。
かたや鼻血、先天性異常の子が生まれているなどの風評は、2011年から2014年までに収束した。これらは、それぞれの現象を真実のように伝える風評であるだけでなく、被災地が実際よりひどく汚染されているように見せかける風評で、「野菜や魚介が放射能に汚染されている」を補強する風評だった。
収束して廃れた理由は、嘘だったからだ。
青木理は、鼻血を放射線の影響であるかのように表現した漫画「美味しんぼ」が批判されると、
「ファクトを伝えることで反発が起こる可能性もある」
「放射線の影響にはさまざまな意見があり」
(作品批判は)「この『福島編』が一段落ついたタイミングで大いに行うべきでしょう」
「未曾有の巨大人災が撒き散らした影響を脇に置き、表現だけを批判するのは、ただの言葉狩りにすぎません」
と書いた。
さあ言葉狩りにしないため、青木が呼びかけた風評の反省会を行おう。
現在進行形の「デブリに触れた水だから処理水は汚染水」など風評加害発言を反省するのはバツが悪いだろうが、廃れた鼻血や先天性異常や異様に高い放射線量の報告などの風評についてなら恥ずかしさは少ないはずだ。あのときは混乱状態で、正しい科学的な知識を啓蒙する人たちの意見を聞く気にならなかったと言い訳をしてもよいだろう。これさえできない者たちが、不安に寄り添う、国と東電の欺瞞などと言うのは見ていて片腹痛く、呆れはてるほかない。
古くは寺田寅彦、原発事故後も幾多の研究が風評発生の因果関係を明らかにしている。風評を隠れ蓑にして、加害行為を誤魔化せる時代ではない。風評を立て、風評加害し、風評被害をもたらす者は責任を追及されるのだ。
追及されるのは、風評の発端を生んだものだけではない。その責任の少なくも半分は、風評を拡散した者たちが負わなければならない。事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。
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