語られてこなかった自主避難/生協が母たちに届けた原発事故
整理・タイトル写真
加藤文宏
第一回
生協が母たちに届けた原発事故
被曝を恐れて首都圏から自主避難した母親がいる。彼女らが抱えていた不安は、妄想によって生まれた感情ではなく、日常的に接していた情報から芽生えた確信だった。
この時期に、少なからぬ数の生活協同組合(生協)が会員のほとんどを占める女性たちに伝えた情報は、他の食料品店が伝えたものとも、政府や自治体が伝えたものとも大いに違っていた。
「食べて応援」を否定し批判したのも、母親たちが信頼を寄せていた生協だった。生協は未だにALPS処理水を「汚染水」と呼んで放出を阻止しようとしている。
母たちが見ていた原発事故
第一回で紹介したAは、被曝を恐れて小学生の子供とともに首都圏から近畿地方へ自主避難した。科学的な評価だけでなく当時の一般的な感覚をもってしても、理解し難い不要な避難だった。筆者や協力者が彼女とやりとりをすると、原発事故の被害規模や、世情に対しての認識が常に大きく食いちがい、コミュニケーションを取るうえで障害になった。
Aは福島第一原発周辺だけでなく、首都圏も放射性物質で汚染されていて、注意深く生活しても過度な被曝を避けられないと考えていた。また関東以北で生協以外の業者が流通させている食品は、汚染されているとみて恐れていた。福島県では深刻な健康被害が出ていると信じていて、県民は口封じされたり、金銭や世間体のため隠そうとしていると推察していた。
これがAの目に映っていた世界だった。他の自主避難者たちも、ほぼ同じように原発事故後の世の中を見ていた。
母たちに影響を与えた生協と山本太郎
2011年11月6日、生活クラブ生活協同組合などが後援して「全国学校給食フォーラム in 札幌」が開催された。
講演会のキャッチフレーズは「放射能汚染の現実を見つめて 子供たちの食の安全を考えよう!」だった。生協系イベントの常連講演者である崎山比早子と天笠啓祐のほか、のちに政治家となる山本太郎が登壇したほか、夜の部では山本のトークセッションが行われた。
山本はトークセッションで、福島県に派遣されたレスキュー隊員が被曝死したと語っている。レスキュー隊員のエピソードは根拠のないデマだが、フォーラム参加者は疑うことなく隊員の被曝死を信じたようだ。
上掲の動画は、震災と原発事故の記憶が生々しい時期の山本の発言を記録したものとしてだけでなく、生協と近い関係にある人々が伝えようとしていた情報がどのようなものであったか知ることができて興味深い。
さすがに生協は店頭やホームページなどで、被曝死エピソードのような得体の知れない情報は流布させなかったが、「放射能汚染によって食の安全が脅かされている」と伝えていた。食の安全と放射能汚染を結びつけて伝えた生協発の情報を信じたことで、のちに首都圏から自主避難する人々に被曝への危機意識が高まっていた。
このため生協の活動実態を調べてきたが、生協と山本には類似点が多く、一部の生協はさまざまなかたちで彼と結びついていた。
両者は取り上げる話題が酷似していた。それぞれ信じるべきは自らであるとし、疑うべきものは国や東電であるとしていた。
さらに山本が支持されている地域は、生協も支持されていた。
山本は国政選挙に東京の選挙区から出馬し、都知事選にも立候補している。得票率が高かった地域は杉並区、国立市、三鷹市、武蔵野市、世田谷区、渋谷区、目黒区、文京区と、西東京市など多摩エリアだった。
これらの地域は生協加入率が高めで、たとえば三鷹市、西東京市は生協組合員加入率が50〜55%、国立市、文京区は45〜50%、杉並区は30〜35%、世田谷区は25〜30%であった。
筆者がかかわった自主避難者や避難願望を抱えていた女性のうち、東京都民で生協が発した情報に影響を受けた者は、すべて上記地域の居住者で、山本を支持していた。
祖母の時代から信頼されていた生協
第一回のAと第二回で紹介したBは生協のメルマガを信頼して、「疑いようがなかった」という。また他の自主避難者や避難を願望した人々の証言からも、彼女たちの祖母や母の時代から食の安全といえば「生協」と目されていたのがわかった。
彼女たちの祖母や母の時代に何があったか振り返ってみよう。
1955年に森永ヒ素ミルク中毒事件が発生して大問題になり、14年後に後遺症が取り沙汰され、1973年に被害者と国、森永乳業の三者によって「確認書」が締結されるまで問題がくすぶり続けた。
1968年に食品公害「カネミ油症事件」が発生した。食用油にPCBが混入し、食べた人に顔面などへの色素沈着や肝臓障害をもたらした事件だったが、汚染を知りながら油を再精製して売り続けたことで被害が拡大した。
1970年代は環境汚染が問題視された。スモッグが都市を覆い、海や河川は泡だったり濁って嫌な臭いを放っていた。赤、青、緑、黄色と原色で着色されて食べると舌が染まる食品が店頭に並び、副原料で水増しされた味わいの良くない紛い物も少なくなかった。
こうした中、「天然」「無添加」「無着色」と訴求された生協の食品は魅力的で信頼できるものとされた。昨今の「自然派」と呼ばれる潮流の原点であるが、とくに自然派ではなかったAやBらにも影響を及ぼしていた。
このほか妊娠または出産や、産休明けの買い物の苦労を減らすため生協の宅配を利用する例も多い。食の安全だけでなく、ネットスーパーが普及する以前から宅配を行い、母親たちのニーズを汲み取っていたのが生協だった。
生協は母たちに何を伝えたか
Bは「生協のニュースレターは、いつも原発事故の話ではじまって、事故の話で終わっていた」ので危機感が増してしまったと指摘する。では自主避難者に影響を与えた生協発の情報とは、どのようなものだったのか。
筆者がかかわった自主避難や願望例のなかで、東京都民かつ生協が発した情報に影響を受けた者は、前述の地域の居住者だった。これらの地域を営業エリアにしていて、2011年から現在に至る活動と主張を追える生協が、生活クラブ生活協同組合とパルシステム東京を統括するパルシステム連合会だった。
両生協はホームページにプレスリリースと組合員への告知や読み物を公開している。生活クラブは過去にメールマガジンのバックナンバーもすべて公開していた。これらを解析して「名詞」の使用数を明らかにすれば、送り出された情報の傾向があきらかになる。
なお、Aが読んでいたメールマガジンは生活クラブのもので、Bが加入したのも同生協だった。
まず生活クラブとパルシステムの、2011年3月11日以降12月までのプレスリリース、告知、読み物における名詞の出現数を調べて上位100位までを比較した(*図1)。
さらに生活クラブのメールマガジンで同様の処理を行い、2011年から2013年までの各年を比較した(*図2)。
生活クラブとパルシステムのプレスリリース、告知、読み物における違いは次のようにまとめられる。
● 生活クラブは原発事故について危機感を強調した
● パルシステムは楽観的ではないものの危機感を強調していない
● 生活クラブは放射線の影響が「子ども」に及ぶと間接的に表現した
● パルシステムは被災者支援など共感を基調にした情報を発した
生活クラブのメールマガジンの内容が、3年間でどのように変化したかを整理すると次のようになる。
1. メールマガジンは生活密着型の具体性が高い情報を伝える媒体であった
2. 2011年は「生活クラブが販売する食品は被ばくのリスクが低く安全」と訴求した
3. 2012年は線量検査の結果を頻繁に伝え、生活クラブが販売する食品の安全性が強調された
(同年、生活クラブでは食品への線量検査の態勢が整い、結果がデータベース化された)
4. 2012年は反原発運動への参加を盛んに呼びかけた
(同年、反原発運動の組織化が進んで規模が大きい集会やデモが頻繁に行われるようになった。「たかが電気」演説で知られる「さようなら原発10万人集会」は2012年7月に行われた)
5. 2012年は反原発だけでなく反TPPの主張が頻繁に取り上げられて政治色が強くなり、前年まで頻出した名詞[意見][感想]が減って、意見や感想ではなく運動の目的と目標が語られた
(生活クラブによる反TPPの主張は、山本太郎の主張と一致していた)
6. これらによって2012年は被災地の復興について語られる機会が大幅に減った
7. 2013年は生活密着型の情報にやや戻すものの、依然として2012年の傾向のままであった
生活クラブとパルシステムでは、それぞれが所有する媒体で伝えた情報に大きな違いがあった。
生活クラブはパルシステムと比較したとき、原発事故の影響に神経質であったり、被害を過大に見積もっていたほか、逐一検査結果を発表して危機が持続しているような印象を読者に与えた。また、主張に反原発色と政治色が強く、集会やデモや署名への勧誘がしばしば行われた。
しかし穏健そうにみえるパルシステムが、生協以外の食料品販売チャネルと同じだったわけではない。生協以外の販売店は被曝への不安を特に語らず、政治的な発言だけでなく集会やデモへの勧誘をしていないため、パルシステムもかなり異質といえる。
パルシステムが2011年から2012年にかけて公開したプレスリリース、告知、読み物を、筆者の知人たちに読んでもらうと、論調に肯定的であれ否定的であれ「反原発色」と「政治色」が強くて「いかにも生協」らしいという声があがった。
生活クラブとパルシステム以外の生協も「食の安全は反原発から」と訴えていた。生活クラブ以外の生協を信頼した人々にも、程度の差はあっても「食の安全」と「反原発」を結びつけた情報が影響を与えたのはまちがいない。
[生活クラブとパルシステムが発した情報の詳細については文末 【資料編】へ]
母たちに生協と反原発がもたらしたもの
筆者の協力者Hは反原発集会やデモを見て、「2011年からしばらくの間、活動家や労働組合とは雰囲気が違う人たちの存在が目を引いた。なかでも30代から40代女性の人数が多いだけでなく、存在感が特別なものに見えた。添え物ではなく、場の中で反原発運動の主人公である自覚に満ちているように見えた」と感想を語った。
「私が利用した『保養』という自主避難プログラムを提供している団体で、組織がしっかりしているものといえば大概は生協だった。自主避難者や避難を相談している人は母親で、専業主婦やパートくらいの仕事に就いていた人ばかりだった。もともと生協の加入者だったり、『保養』をきっかけに生協に加入する人も多かった」と言ったのは第三回で紹介したCだが、筆者らが扱ったり耳にした例でも子育て世代の専業主婦層が圧倒的に多かった。
HとBの観察を裏付けるデータがある。1994年度から3年ごとに実施されている全国生協組合員意識調査の2012年度版によれば、組合員の92.9%が女性だった。このとき全会員における30代、40代の割合は合計38.9%だった。また専業主婦など職業についていない者は全体の45,1%だった。子育て世代の女性、なかでも専業主婦に不安と政治への誘導が投下されたのだ。
母親としての使命や責任へのこだわりによって視野狭窄に陥りがちだった彼女らに、生協は「食の安全」を訴え、さらに「食の安全は反原発から」と運動への参加を促した。生協にとって山本太郎を筆頭に反原発のオピニオンリーダーは都合のよいスポークスマンであり、山本太郎にとって生協は支持層そのものであった。母親たちの参加によって反原発運動が拡大し、勢いを増したのはまちがいない。だが運動参加の前提となる、現実への認識があまりにもまちがっていた。
「反原発運動は『危険だ、危険だ』と訴えているから、安心できるはずがなかった。運動や政治から離れても、やっていた過去をいつまでも否定できなかった」とAは言った。
Aは後悔しながらも帰還に二の足を踏み、コロナ禍に入ると消息を絶った。生協と反原発運動は、程度の差こそあれ母親を非現実的な世界へ連れて行ったのだ。
── 資料編 ──
生活クラブとパルシステムが発した情報について。
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